垂水村(読み)たるみむら

日本歴史地名大系 「垂水村」の解説

垂水村
たるみむら

[現在地名]吹田市垂水町一―三丁目・山手やまて町一―三丁目・円山まるやま町・広芝ひろしば町・千里山西せんりやまにし一―四丁目・千里山東せんりやまひがし一丁目・江坂えさか町一丁目・同五丁目・江の木えのき町など

島下しましも郡吹田村・片山かたやま村の西に位置し、豊島てしま郡に属する。吹田村との境には糸田いとだ川が流れ、村の北部は千里丘陵の南端部、南部は平坦な地形である。南限は神崎川。「行基年譜」の「天平十三年記」に「垂(ママ)布施屋 在豊島郡垂(ママ)」とみえる。布施屋が設けられたのは交通の要地であったためであろう。「万葉集」巻八に載る志貴皇子の歌、「石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」の垂水を当地とする考えは「万葉代匠記」にみえる。そのほか「万葉集」の巻七・巻一二にも「垂水の水」を詠んだ歌があり、これらの垂水も当地のことと考えられる。「垂水の水」は歌枕。なお当地と関係深い古代氏族に垂水公がいた(→垂水神社

〔中世〕

豊島郡榎坂えさか郷に属した一村。村名は文治五年(一一八九)三月の春日社領垂水西牧榎坂郷田畠取帳(今西家文書)にみえ、垂水神社の所在する二条一里から南の同二里を中心に東の一条一・二里の数ヵ坪は島下郡に接し、西の三条一里の一部と同二里の南半ならびに同三里を村域とする一〇〇町歩足らずの村である。屋敷地は二条一里のやや東寄りに三筆記載されているが、そこは旧糸田川の形成した扇状地の縁辺にあたる。所領関係をみると、位田・三条院勅旨田国衙領のほか、丘陵沿いに摂関家領垂水西たるみのにし牧の牧内田、垂水社の近辺に垂水神田、南の三国みくに(現神崎川)の近くには山城醍醐寺末の清住せいじゆう寺領と奈良興福寺領吹田庄の一部があり、それら所領を差引くと春日社領垂水西牧領は四〇町歩足らずの地積となる。これに次ぐのが清住寺領の三三町歩余である。また当村には垂水神田にのみ七町歩余の名田をもつ松枝まつえだ名があり、この名主は垂水社の神主家ではないかと考えられ、村内では指導的地位にあった可能性がある。こうしたことからみて、当村において奈良春日社の領主としての地位は必ずしも強力なものであったとはいえない。ただ、社領は村内のほぼ全域にわたっており、南部にまとまって所在する清住寺領内の坪付をみると、「有枝八反内寺五反、加納三反」のように、春日社側の加納田が同寺領内にあって、春日社領内の農民が出作した結果、春日社側が収取できる地を獲得しているなど、春日社が当村を取込む条件はもっていたといえる。


垂水村
たるみむら

[現在地名]津市垂水・上弁財かみべざい

安濃あのう郡南部丘陵東端から海岸へかけての地域で、津城下藤枝ふじえだ町の西南に位置し、集落は西の山裾にある。伊勢参宮街道は藤枝町のはずれで西へ曲がって当村を通る。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「一志郡垂水村」とある。「垂見」とも書く。「五鈴遺響」では、東南にある米津よねづを当村の属邑とするが、その地籍は藤方ふじかた村に属しているので誤りである。垂水の地名について「伊勢参宮名所図会」に昔高い樋を作って旱魃を救った人が垂水の姓を賜ったと記すが、伝説以上に出ない。集落東側の水田には条里地割の痕跡が残り、「八の坪」の坪名も残存し、康平五年(一〇六二)の民部田所四天王寺領勘注状(四天王寺蔵)には「一条五垂水里」とあり、安濃郡条里に属した。この遺構の方位は、ほとんど正南北、安濃川流域に残る安濃郡条里の方位が、北において東北に三〇度振れているのと相違して、これはこの付近の海岸線が正南北であることによるのではないか、との説もあるが、むしろ条里地割の工事を行った時期が、安濃川流域とは異なっていたことによる、と考えるべきではないだろうか。


垂水村
たるみむら

[現在地名]丸亀市垂水町

土器どき川左岸に位置し、郡家ぐんげ村の東南にある。同川沿いに宇多津うたづ(現綾歌郡宇多津町)から続く金毘羅参詣道が通る。垂水茶堂跡と伝える地蔵堂が残り、近くに天保七年(一八三六)村民建立の石灯籠、宇多津塩田(現宇多津町)開拓者と伝える今田八五郎碑がある。古代那珂なか郡垂水郷(和名抄)の遺称地。寛永国絵図に村名がみえ、高一千九九三石余。寛永一九年(一六四二)の小物成は綿一一八匁(高松領小物成帳)。寛政年間(一七八九―一八〇一)の溜池はかみ(水掛高一千一石余)、出水は西荒井にしあらい出水(一五三石余)など三五(池泉合符録)


垂水村
たるみむら

[現在地名]落合町垂水

下市瀬しもいちぜ村の南にあり、当地で備中川は旭川右岸に合流、平野を形成している。「作陽誌」によればこの地を合流点にちなんで落合と称し、旭川は落合から下流を西にし川と称することもあるという。備中と美作西部を結ぶ要衝にあたり、古代真島ましま郡垂水郷(和名抄)の遺称地。弘治三年(一五五七)仮託の美作国献上記(美作古簡集)に載る垂水郷は、「太平記」巻七(船上合戦事)などにみえる南三郷の一つといわれ、応永一八年(一四一一)四月二二日、美作国守護赤松義則は南三郷の内惣社領田畠における給人等の押妨を止め、下地を木山社に寄進している(「赤松義則寄進状」木山寺文書)


垂水村
たるみむら

[現在地名]新吉富村垂水

現新吉富村の東端部に位置し、山国やまくに川中流左岸の河岸段丘上と平地に立地する。村内を友枝ともえだ川が北流し、東境を流れる山国川に合流する。西境をくろ川が北流する。中世には垂見とも記される。明応八年(一四九九)七月八日の大友氏年寄連署奉書(大友家文書録/大分県史料三一)によれば、上毛こうげ郡内の「垂見之内森下分五町四段」を野上新右衛門尉に宛行うよう、上毛郡代が指示を受けている。永禄五年(一五六二)六月一二日、毛利隆元から「垂水村壱町五段」の安堵証判を受けた門司親胤は、元亀元年(一五七〇)当地を子息の余七(与七)に譲り、天正六年(一五七八)与七は毛利輝元から同地の安堵を受けている(元亀元年一二月二五日「門司親胤譲状写」毛利氏四代実録考証論断/大日本史料一〇―五、天正六年一二月一三日「毛利輝元安堵状写」萩藩閥閲録三)


垂水村
たるみむら

[現在地名]能勢町垂水

神山こやま村の北、長谷ながたに村の東に位置する。北部丘陵の尾根にかめ古墳群がある。能勢郡西郷郷士覚書写(東家文書)の当村の項に南北朝初期と推定される奥氏以下一〇氏の名がみえ、永禄二年(一五五九)二月九日の能勢郡諸侍書上覚写(井戸家文書)に垂水村諸侍が書上げられている。村高は文禄三年(一五九四)検地で一八二石余(延宝五年「村明細指出案」垂水区有文書)。領主の変遷は宿野しゆくの村に同じ。前掲村明細指出案によれば、小物成は薪代・栗代・栢代・茶代を課せられている。


垂水村
たるみむら

[現在地名]東条町東垂水ひがしたるみ

やぶ村の北東、東条川中流左岸の丘陵地にある。慶長国絵図に村名が記される。正保郷帳では田方三八一石余・畠方五三石余。この高は福田ふくだ郷の垂水村(現社町)と当村にあたる吉田よしだ新庄垂水村の合計高で、幕府領二二六石余・赤穂藩領二〇九石余の相給となっており、幕府領分が当村をさす。元禄郷帳では福田と肩書された垂水村と新庄と肩書された垂水村に分けて記され、当村の高二三七石余。宝永三年(一七〇六)から延享四年(一七四七)まで但馬出石藩領(「改撰仙石家譜」出石町教育委員会蔵、宝永三年「仙石政明知行目録」仙石家文書)


垂水村
たるみむら

[現在地名]瀬戸田町垂水

おぎ村の北西、観音かんのん(四七二・三メートル)の麓に位置し、西は海に臨む。海上に浮ぶくろ(俗に瓢箪島と称する)の東半分が当村域に入り、残りは伊予国越智郡に属す。

正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」に村高二六四・七三七石を記し、以後の変化はない。「芸藩通志」は畝高二七町九反九畝余、戸数一〇九・人口六〇〇、牛五二、船一八(一一石以下)、「居民農樵相半す」と記し、寺院として恵日山長光ちようこう(曹洞宗)を記す。当村では寛政一二年(一八〇〇)村役人の不正糾弾の村方騒動が発生している。


垂水村
たるみむら

[現在地名]社町西垂水にしたるみ

加古川左岸の平野部に位置し、北は窪田くぼた村。慶長国絵図に「西垂水」とみえる。正保郷帳に高四三五石余(田方三八一石余・畠方五三石余)の垂水村がみえるが、これはなぜか当村と加東郡内の同名の垂水村(現東条町)を合せたもので、うち赤穂藩領二〇九石余とあるのが当村分をさす。以後の領主の変遷は田中たなか村と同じ。元禄郷帳では村名に「福田」の肩書があり、高二〇九石と記され、「新庄」の肩書をもつ垂水村と区別されている。


垂水村
たるみむら

[現在地名]篠山市垂水

小立おだち村の南西にあり、大芋おくも川が流れる。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「たるみ村」とみえ、高四三〇石余。正保郷帳では垂見村として田高一四〇石余・畠高九石余。「丹波志」では草上くさのかみ(村雲庄)のうちで、高一六八石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では向井組のうち垂水村とあり、家数一六・人数七四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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