榎並庄(読み)えなみのしよう

日本歴史地名大系 「榎並庄」の解説

榎並庄
えなみのしよう

現城東区野江のえ関目せきめ付近を中心とし、かつての大和川と淀川の合流点に近い低地帯に存在した大規模な庄園。もと東成ひがしなり郡に属するが正確な庄域は定めがたい。近世には淀川南東、鯰江なまずえ川以北の摂州二五村を榎並庄と称しており(摂津志・享保八年摂州榎並河州八個両荘之地図)、現旭区・都島みやこじま区のほぼ全域と、城東区北半、鶴見区の一部にあたる。野江村水神すいじん社付近には中世榎並城があったといわれ、馬場ばば(現旭区)の集落部を字榎並というのが注目される。

〔摂関家領〕

法隆寺別当次第」に長元八年(一〇三五)から長暦三年(一〇三九)まで法隆寺別当をつとめた久円が、その任中に西大門を造立するため「榎並荘一所」を売却したとみえる。しかし榎並庄には法隆寺だけでなく多くの領主の所領が錯綜していたらしい。承暦四年(一〇八〇)に、当庄をめぐって内大臣藤原信長と信濃守藤原敦憲との間に相論が起こった際、榎並庄の四至内に所領をもつ者に公験を提出させたところ、藤原信長・藤原敦憲・故藤原憲房後家・皇太后宮藤原歓子・右中弁藤原通俊や四天王寺(現天王寺区)善源ぜんげん(跡地は現都島区)らの多数が応じている(「水左記」承暦四年六月二五日・同二九日条)。この相論で藤原敦憲は父憲房が故関白家(頼通)から領掌を認められたときの政所下文を提出して対抗しているが(同書同年閏八月八日条)、結局、信長の圧迫を逃れるため関白藤原師実にその所領を寄進したようで、その頃から摂関家の榎並庄支配が急速に進展し、摂関家領となっている。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)の榎並に「京極殿領内」と注記があるのは、当庄が師実(京極殿)の時代に摂関家領として確立したことを示している。摂関家では前遠江守藤原基俊を預所に補任して支配させた。ところが基俊が預所職を子孫に伝える際、摂関家は榎並庄を上庄・下庄に分割、基俊の嫡女(冷泉宰相室)を下庄の、次女(清章室)を上庄の預所に任じた(「榎並庄相承次第」勧修寺家本永昌記裏文書)。このうち上庄の預所職は次女の夫清章に伝えられたが、保元二年(一一五七)四月、関白藤原忠通は榎並上庄を東方と西方に分け、清章の譲状に任せて、その嫡女を西方の、次女を東方の預所に補任し庄務執行を命じた(「関白家政所下文案」・「榎並庄相承次第」同文書)

前掲近衛家所領目録によると、榎並庄を伝領した近衛基通は、鎌倉初期に上庄西方を近衛道経の妻武蔵に分与したが、上庄東方と下庄は本所の直轄とし、政所の年預を給主として支配させた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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