日本歴史地名大系 「榎並庄」の解説
榎並庄
えなみのしよう
〔摂関家領〕
「法隆寺別当次第」に長元八年(一〇三五)から長暦三年(一〇三九)まで法隆寺別当をつとめた久円が、その任中に西大門を造立するため「榎並荘一所」を売却したとみえる。しかし榎並庄には法隆寺だけでなく多くの領主の所領が錯綜していたらしい。承暦四年(一〇八〇)に、当庄をめぐって内大臣藤原信長と信濃守藤原敦憲との間に相論が起こった際、榎並庄の四至内に所領をもつ者に公験を提出させたところ、藤原信長・藤原敦憲・故藤原憲房後家・皇太后宮藤原歓子・右中弁藤原通俊や四天王寺(現天王寺区)・
前掲近衛家所領目録によると、榎並庄を伝領した近衛基通は、鎌倉初期に上庄西方を近衛道経の妻武蔵に分与したが、上庄東方と下庄は本所の直轄とし、政所の年預を給主として支配させた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報