橋野高炉跡(読み)はしのこうろあと

日本歴史地名大系 「橋野高炉跡」の解説

橋野高炉跡
はしのこうろあと

[現在地名]釜石市橋野町

橋野川の上流あお山中に位置する。安政五年(一八五八)海防御用岩鉄吹立試につき、仮高炉築立のため御用取扱として勘定奉行星合治太夫、築立係に鉄砲方大島惣左衛門、同取扱に鉄砲方田鎖仲・大砲方長嶺治助、支配人に盛岡本町市之助が任命された(「雑書」五月一九日条)。仮高炉は同年中に完成、翌六年二月には高炉ほか出ならびに種岩取扱場所はもちろん、数十ヵ所の炭竈、諸役所の掛屋、労働者の宿舎など道普請にいたるまで整い、そのうえ出もしだいに生産されるようになった(「大島高任行実」盛岡市中央公民館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「橋野高炉跡」の意味・わかりやすい解説

橋野高炉跡【はしのこうろあと】

岩手県釜石市の北西部にある,江戸時代に建造された最古高炉跡。近隣鉱山で採掘される鉄鉱石原料とし,大島高任の指導により1858年に完成。1861年までは盛岡藩が直営し,この間に高炉は増設され3基となる。内陸の山間部に立地するため運搬に難があり,明治政府が沿岸部に官営釜石製鉄所を設置して以降は衰微。現在でも基礎の石組みや水路が残されており,2015年,〈明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼造船石炭産業〉の構成資産の1つとして世界文化遺産に登録。

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国指定史跡ガイド 「橋野高炉跡」の解説

はしのこうろあと【橋野高炉跡】


岩手県釜石市橋野町にある日本最古の洋式高炉跡。近代製鉄の父といわれる幕末から明治時代の鉱業技術者、大島高任(たかとう)の技術指導のもとに、1858年(安政5)から翌年にかけて建設され、南部藩が経営した。3基の高炉跡のほか、水車場跡や御日払所、長屋跡そして山神社跡などの遺構があり、当時の稼動状況・経営状況を伝えている。1957年(昭和32)に国指定史跡となり、1984年(昭和59)には、アメリカ金属協会から「ヒストリカル・ランドマーク賞」を受賞した。釜石道東和ICから車で約1時間30分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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