正受庵(読み)しようじゆあん

日本歴史地名大系 「正受庵」の解説

正受庵
しようじゆあん

[現在地名]飯山市大字飯山 上倉

臨済宗小畝山正受庵。飯山城下町西南段丘東端にある。寛文六年(一六六六)飯山城主松平忠倶開基開山は道鏡恵端、延宝四年(一六七六)より住庵(飯山町誌)。天和二年(一六八二)の寺社領由緒書(西敬寺蔵)に「武州江戸東北寺末上倉正受庵」は「依為新地未許院号、至今寮庵也」と記し、江戸麻生東北寺洞天から飯山奉行所へあてた「恵端首座愚僧弟子紛無之候、已来宗旨之儀異論於在之拙僧可被仰聞候」との証文を載せる。

恵端は洞天の弟子であるが、父は松代藩主真田某、母は李雪りせつ、寛永一九年(一六四二)飯山城内で生れる。万治三年(一六六〇)一九歳出府、麻生東北庵無難を師として出家、法階を望まず終生最下位の蔵主、無難の入寂により飯山へ帰り住庵、松平忠倶より十一面観音立像を贈られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「正受庵」の意味・わかりやすい解説

正受庵 (しょうじゅあん)

長野県飯山市にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は小畝山。1666年(寛文6)松平忠俱の開基,道鏡慧端(1642-1721)の開山になり,慧端は76年(延宝4)より住庵した。慧端は至道無難の法を継いだ禅者で,正受老人と呼ばれ,この庵において白隠慧鶴を厳しく指導したことはよく知られている。1789年(寛政1)の《妙心寺末寺帳》に,東北寺(武蔵国江府渋谷)の末寺としてその庵名を見いだす。1873年無檀家のため廃庵されたが,84年山岡鉄舟らの尽力により再興された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「正受庵」の意味・わかりやすい解説

正受庵
しょうじゅあん

長野県飯山(いいやま)市飯山にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の寺。小畝山(しょうほさん)と号する。本尊釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。白隠の師である正受老人道鏡慧端(どうきょうえたん)(1642―1721)の草庵(そうあん)で、飯山の領主松平(桜井)忠倶(ただとも)が領内の小畝山に庵(いおり)をつくって正受に与えたもの。正受はここで母の李雪尼(りせつに)とともに無一物の坐禅三昧(ざぜんざんまい)の生涯を送った。寺には弟子白隠作の正受老人木像、正受が座った坐禅石、その遺偈(いげ)である「坐死 末後一句 死急難道 言無言言 不道不道」(坐死 末後の一句 死急にして道(い)ひ難し 無言(むごん)の言(げん)を言とし 道はじ道はじ)など正受ゆかりの品が残されている。1873年(明治6)廃寺となったが、山岡鉄舟らによって84年に再興された。県史跡に指定されている。

菅沼 晃]

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事典・日本の観光資源 「正受庵」の解説

正受庵

(長野県飯山市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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