至道無難(読み)しどうぶなん

精選版 日本国語大辞典 「至道無難」の意味・読み・例文・類語

しどう‐ぶなんシダウ‥【至道無難】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙 仏語究極・真実の道は、何もむずかしいことはない、という意の禅語
    1. [初出の実例]「上堂。至道無難。唯嫌揀択。忽拈抂杖卓一下云。者箇是竜宝抂杖子。至道興揀択。在什麽処」(出典:大燈国師語録(1426)上)
  2. [ 2 ] 江戸時代の臨済宗の僧。美濃(岐阜県)の人。江戸に出て活躍し、仮名法語によって「なにもなき心」を強調し、大いに宗風を広めた。和歌書道にも秀でる。慶長八~延宝四年(一六〇三‐七六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「至道無難」の意味・わかりやすい解説

至道無難
しどうぶなん
(1603―1676)

江戸時代の臨済(りんざい)宗の僧。美濃(みの)(岐阜県)関ヶ原本陣三輪(みわ)氏の出。中年に至るまで家業のため出家できなかった。しかし妙心寺の愚堂東寔(ぐどうとうしょく)(1577―1661)が江戸への往復の際に家を常宿としたことから親しく禅要を問う機会を得、ある日、愚堂から飲酒を戒められたのを機にそのまま愚堂に随伴して出家した。「至道無難」の話を透得(とうとく)し師の印可を受けたのが47歳。以後、江戸の禅界に重きをなしたが、つねに形式主義、出世主義を批判し平民的宗風を鼓吹(こすい)した。その宗風は道鏡慧端(どうきょうえたん)(1642―1721)、白隠慧鶴(はくいんえかく)へと受け嗣(つ)がれた。

船岡 誠 2017年7月19日]

『『至道無難禅師集』(1956/新装版・1989・春秋社)』

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朝日日本歴史人物事典 「至道無難」の解説

至道無難

没年:延宝4.8.19(1676.9.26)
生年:慶長8(1603)
江戸前期の臨済宗の僧。「ぶなん」ともいう。美濃(岐阜県)生まれ。俗姓は相川生家関ケ原の本陣宿屋で,父が帰依した愚堂東寔が投宿した際に指導を受け,「至道無難」の公案により徹悟し,法嗣となる。出家した年には40歳前後,47歳と諸説ある。江戸に出て麻布に東北庵を開き至道庵と号し,延宝2(1674)年門人が建立した渋谷の東北寺の開山に招かれたが断り,小石川に移した。2年後に示寂。徳川家綱の信頼を得たが名刹を避けた。出家禅には批判的で,庶民的な庵主禅を説いた。法嗣は白隠慧鶴の師道鏡慧端。<著作>『即心記』『自性記』<参考文献>『続日本高僧伝』8巻

(藤田正浩)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「至道無難」の解説

至道無難 しどう-ぶなん

1603-1676 江戸時代前期の僧。
慶長8年生まれ。臨済(りんざい)宗。美濃(みの)(岐阜県)関ケ原の本陣の家業をつぐ。40歳ごろ愚堂東寔(ぐどう-とうしょく)について出家し,印可をうける。江戸麻布に東北庵をいとなみ,のち門人らがたてた東北寺の開山(かいさん)となる。至道庵をかまえ退隠。諸大名の帰依(きえ)をうけた。延宝4年8月19日死去。74歳。俗姓は三輪(一説に相川)。号は劫外。著作に「無難禅師道歌集」「至道無難禅師法語」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「至道無難」の意味・わかりやすい解説

至道無難
しどうむなん

[生]慶長8(1603).美濃
[没]延宝4(1676)
江戸時代前期の臨済宗の僧。「ぶなん」とも読む。江戸に出て至道庵 (小石川) に住み,宗風を広めた。主著『仮名法語』。

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とっさの日本語便利帳 「至道無難」の解説

至道無難

人ほどはかなき(愚かである)ものなし。神仏に向かい、富貴を願う。願う心をやむれば富貴なることを知らず。\至道無難(しどうむなん)
禅僧(一六〇三~七六)。

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