20世紀初頭から第2次世界大戦中にかけて活動した中国の政治家。法政大への留学経験があり、
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中国の政治家。字(あざな)は精衛(せいえい)。広東(カントン)省出身。日本の法政大学に留学中、中国同盟会に入り、機関紙『民報』の記者を務めた。1910年、清(しん)朝の摂政王暗殺未遂により、死刑の宣告を受けたが、辛亥(しんがい)革命で大赦。のち広東国民政府にあって孫文(そんぶん/スンウェン)を助け、連ソ容共を内容とする1924年の国民党改組に参加した。孫文の死後は、廖仲愷(りょうちゅうがい/リヤオチョンカイ)、胡漢民(こかんみん/フーハンミン)らとともに国民党左派の中心となって蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)と対立、1927年の国共合作政権である武漢政府にも参加した。国共内戦と世界恐慌のなかで自己の方向を失い、蒋介石との派閥抗争に走った。1938年4月、国民党副総裁になったが、日中戦争激化のなかで、日本軍の画策にのって、重慶(じゅうけい/チョンチン)から脱出。ハノイで和平建議を発表して日本の近衛文麿(このえふみまろ)首相に接近し、1940年3月、日本の傀儡(かいらい)である南京(ナンキン)政府を樹立、主席に就任した。1944年(昭和19)名古屋で病没した。
[加藤祐三]
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中国の政治家。広東省番禺県の人。字をもって汪精衛の名でも知られる。日本の法政大学に留学中,中国同盟会に加入,一時機関誌《民報》の編集に当たる。1910年(宣統2)清朝摂政王載灃(さいほう)の暗殺に失敗して死刑の宣告を受けたが,辛亥革命の成功により釈放。このとき革命の奪者袁世凱に深く接近して袁世凱と孫文との提携を策した行動がしばしば問題視されるが,国民党内では孫文直系の位置にあり,第二革命挫折後一時フランス遊学を余儀なくされた。孫文亡き後も左派を代表する指導者として,蔣介石による国共合作の破壊後,これと対立する武漢政府の主席に迎えられた。しかし結局は右派と妥協して統一政府の首脳に加わり,以後反蔣運動や下野亡命を繰り返しながらも行政院長,外交部長,党副総裁などの要職を歴任した。〈満州事変〉から日中全面開戦にかけて,しだいに対日和議論に傾き,抗日気運に棹さした蔣介石主流派と重ねて抗争を演じ,ついに38年12月抗戦主都重慶を脱出,日本側の近衛声明にこたえる和平宣言を発した。ついで日本側との協議やかけひきの末,40年〈反共和平救国〉と〈大アジア主義〉をうたった〈新中央政府〉を被占領下の南京に樹立,名目上の独立を誇示したものの,抗戦陣営に裏切りへの憤激を引き起こしたほかになすところないまま,44年名古屋で客死した。著書に《汪精衛文存》(1935)などの政論類のほか,詩集《汪精衛詩存》(1929)もあり,書生的感情家の一面を伝える。
執筆者:木山 英雄
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1883~1944
民国時代の政治家。広東省番禺(ばんぐう)県の人。号は精衛。清末,『民報』に健筆をふるい,1911年摂政王載灃(さいほう)の暗殺を謀った。フランス留学後,広東政府要人となり,孫文の死後はその第一の後継者とされた。27年,国共合作武漢政府の首班として国民党左派の立場を守ったが,政府崩壊後は反革命の側に移り,29年以後はたびたびの反蒋介石(しょうかいせき)軍閥戦に参加した。33年から蒋と合作して反共親日に努めたが,35年狙撃されて失脚。日中戦争では当初悲痛な抗戦宣言を発したが,38年重慶を脱出して日本の手先となり,40年傀儡(かいらい)政権の南京国民政府の主席に就任した。日本の名古屋で病死。
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1885.5.4~1944.11.10
近代中国の政治家。広東省出身。号は精衛。法政大学留学中に孫文らの中国革命同盟会に加入。辛亥(しんがい)革命後国民党の要職を歴任したが,孫文の死後蒋介石(しょうかいせき)とあわず,反蒋運動を展開,蒋の下野により南京政府と妥協。満州事変勃発後の1932年(昭和7)には,復帰した蒋と妥協し蒋汪合作政権を樹立し行政院長に就任。36年の西安事件では反共第一を主張した。日中戦争勃発後の38年重慶を脱出し,反共和平救国声明を発表。40年南京国民政府を樹立し主席代理(のち主席)兼行政院長となるが,事実上は日本の傀儡(かいらい)政権であった。43年来日し,翌年名古屋で死去。
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…清朝時代には,漢族の利益をふみにじって異民族満州王朝支配に奉仕する漢人がそれで,たとえば清朝のために太平天国を討伐した曾国藩は,体制派から同治中興の名臣とたたえられたのにたいし,革命派からは漢奸と非難された。民国時代には日本の侵略に奉仕したものが主で,南京に傀儡(かいらい)国民政府(1940‐45)を組織して日本軍の占領地域の支配を代行した汪兆銘をその筆頭とする。汪兆銘は辛亥革命いらいの中国国民党の重鎮,その配下の有力者陳公博,周仏海はともに中国共産党の創立にあずかり,のち国民党に転向してさらに漢奸となった。…
…このとき中央政府をおさえた直隷派が約法と国会を回復したため,孫文はもはや護法をかかげず,また軍閥にもたよることなく,国共合作にもとづく新しい革命をめざしたのである。孫文死後,大元帥府は委員制の広州国民政府(第4次広東政府,1925年7月~26年12月)に改組されたが,汪兆銘を委員長とするこの政府は国民党右派を排除した連合政府だった。広東政府は香港海員スト(省港ストライキ)の支援に象徴されるような民主的側面をもち,広州を国民革命の根拠地とすることに成功した。…
…すでに北伐開始以前に蔣介石を頭とする新右派は共産系抑圧を図り,両者の対立が顕在化しつつあったが,共産党が譲歩して北伐をすすめたのである。すでに軍権を掌握した蔣介石はさらに政権をも手中にしようとして南昌遷都を図ったが,反蔣の左派と共産派は27年1月武漢に遷都を強行,さらに第2期3中全会で総司令職を廃して蔣介石を一軍事委員に格下げし,党・政の大権を汪兆銘に託して蔣介石に対抗しようとした。一方,帝国主義と中国の資本家,地主は,国民革命軍の破竹の進撃をみて,北伐の隊伍のなかに彼らの代理人をもとめるにいたった。…
…11月には近衛内閣はこの戦争の目的は東亜新秩序建設にあるとして中国にも協力を求める声明を出し,12月に日本軍の防共駐屯等の国交調整方針を示したいわゆる近衛声明を発表した。国民党副総理汪兆銘はこれに呼応して重慶を脱出し対日和平を提唱した。しかしこれに呼応する軍閥もなく,国民政府を切り崩せなかった汪一派に対する日本の態度は冷たかった。…
※「汪兆銘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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