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汪兆銘 おう ちょうめい

美術人名辞典の解説

汪兆銘

中国の政治家広東省番禺生。名は精衞。日本に留学して法政大学に学び、中国革命同盟会に入る。のち孫文の側近として活躍し、国民党の要職を占め、左派の中心人物として蒋介石と対立していた。しかし、のち協力して対日折銜にあたった。蒋のもとでは国民党副総裁に就任した。のち南京で和平救国を唱え、日本と提携した。名古屋で昭和19年(1944)歿、59才。

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デジタル大辞泉の解説

おう‐ちょうめい〔ワウテウメイ〕【汪兆銘】

[1883~1944]中国の政治家。番禺県(広東省)の人。字(あざな)は精衛法政大学在学中に中国革命同盟会加入国民党結成後は同党左派の中心。のち日中戦争が始まると和平救国を唱えて、日本との提携を主張し、1940年南京政府樹立主席となった。名古屋で病死。ワン=チャオミン。

ワン‐チャオミン【汪兆銘】

おうちょうめい(汪兆銘)

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百科事典マイペディアの解説

汪兆銘【おうちょうめい】

中国の政治家。字は精衛。広東省の人。清末日本の法政大学に留学中,中国同盟会に加入。1916年広東政府要人として孫文を助け,その死後は中国国民党左派の中心人物として蒋介石と対抗。
→関連項目阿部信行内閣抗日戦争近衛文麿内閣呉佩孚周仏海大東亜会議頭山満南京国民政府日華基本条約日中戦争

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

汪兆銘 おう-ちょうめい

1883-1944 中国の政治家。
光緒9年3月28日生まれ。明治37年法大に留学し,孫文の指導する中国革命同盟に加入。孫文の死後,国民党の左派指導者として武漢政府主席となり,蒋介石との合作政権で行政院長,党副総裁をつとめる。1940年反共と対日和平をかかげ,南京国民政府を樹立したが,事実上日本軍の傀儡(かいらい)政権でおわった。昭和19年11月10日名古屋で死去。62歳。広東省出身。字(あざな)は精衛。著作に「汪精衛文存」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

おうちょうめい【汪兆銘 Wāng Zhào míng】

1883‐1944
中国の政治家。広東省番禺県の人。字をもって汪精衛の名でも知られる。日本の法政大学に留学中,中国同盟会に加入,一時機関誌《民報》の編集に当たる。1910年(宣統2)清朝摂政王載灃(さいほう)の暗殺に失敗して死刑の宣告を受けたが,辛亥革命の成功により釈放。このとき革命の簒奪者袁世凱に深く接近して袁世凱と孫文との提携を策した行動がしばしば問題視されるが,国民党内では孫文直系の位置にあり,第二革命挫折後一時フランス遊学を余儀なくされた。

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大辞林 第三版の解説

おうちょうめい【汪兆銘】

1883~1944) 中国の政治家。広東省出身。字あざなは精衛。日本に留学中孫文の中国革命同盟会に入り、国民党結成後その幹部となる。初め同党左派であったが、日中戦争が始まると親日反共を主張、1940年三月、日本と結び南京政府(汪兆銘政権)を樹立、主席となる。ワン=チャオミン。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

汪兆銘
おうちょうめい
Wang Zhao-ming

[生]光緒9(1883).5.4. 広東,番禺
[没]1944.11.10. 名古屋
中国の政治家,中国国民党指導者の一人。号は精衛。日本の法政大学に留学中,孫文らの中国革命同盟会に加入。宣統3 (1911) 年清朝の摂政王載 澧の暗殺を企てて失敗し,死刑の宣告を受けたが,その才を惜しまれ死一等を減じられて監禁中辛亥革命が起り,釈放。 1912年渡仏して文学を学び帰国するも,翌 13年第二革命失敗後再び渡仏し 17年帰国。 23年の第1次国共合作成立以後は急進的な民族主義者として孫文に従い,国民党左派を率いて反帝国主義運動を積極的に推進。 24年国民党中央執行委員となり,25年孫文の死後は胡漢民,廖仲 愷 (りょうちゅうがい) とともに国民党の指導者となり,宣伝部長をつとめた。 27年蒋介石の反共クーデター以後反共に転じ蒋介石と妥協したが,広東コミューン事件の責任を問われて再び渡仏し,29年帰国。それ以後 31年まで反蒋派軍閥と提携して反蒋運動を続けたが,蒋の辞職で南京政府と妥協し,32年行政院長に就任。復帰した蒋介石に軍事をまかせ,自分は政務を分担していわゆる蒋汪合作政権をつくり,33年外交部長を兼任。 37年日中戦争が起ると対日妥協を唱え,38年 12月重慶を脱出。 39年日本に来て日本側との間で汪政権樹立工作を続け,40年南京に「国民政府」を樹立し主席に就任。 43年日本と同盟条約を結んだが,南京「国府」は完全な日本の傀儡 (かいらい) 政権であり,民衆の支持はまったくなかった。 44年名古屋帝国大学病院で病死した。

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世界大百科事典内の汪兆銘の言及

【漢奸】より

…清朝時代には,漢族の利益をふみにじって異民族満州王朝支配に奉仕する漢人がそれで,たとえば清朝のために太平天国を討伐した曾国藩は,体制派から同治中興の名臣とたたえられたのにたいし,革命派からは漢奸と非難された。民国時代には日本の侵略に奉仕したものが主で,南京に傀儡(かいらい)国民政府(1940‐45)を組織して日本軍の占領地域の支配を代行した汪兆銘をその筆頭とする。汪兆銘は辛亥革命いらいの中国国民党の重鎮,その配下の有力者陳公博,周仏海はともに中国共産党の創立にあずかり,のち国民党に転向してさらに漢奸となった。…

【広東政府】より

…このとき中央政府をおさえた直隷派が約法と国会を回復したため,孫文はもはや護法をかかげず,また軍閥にもたよることなく,国共合作にもとづく新しい革命をめざしたのである。孫文死後,大元帥府は委員制の広州国民政府(第4次広東政府,1925年7月~26年12月)に改組されたが,汪兆銘を委員長とするこの政府は国民党右派を排除した連合政府だった。広東政府は香港海員スト(省港ストライキ)の支援に象徴されるような民主的側面をもち,広州を国民革命の根拠地とすることに成功した。…

【中華民国】より

…すでに北伐開始以前に蔣介石を頭とする新右派は共産系抑圧を図り,両者の対立が顕在化しつつあったが,共産党が譲歩して北伐をすすめたのである。すでに軍権を掌握した蔣介石はさらに政権をも手中にしようとして南昌遷都を図ったが,反蔣の左派と共産派は27年1月武漢に遷都を強行,さらに第2期3中全会で総司令職を廃して蔣介石を一軍事委員に格下げし,党・政の大権を汪兆銘に託して蔣介石に対抗しようとした。一方,帝国主義と中国の資本家,地主は,国民革命軍の破竹の進撃をみて,北伐の隊伍のなかに彼らの代理人をもとめるにいたった。…

【日中戦争】より

…11月には近衛内閣はこの戦争の目的は東亜新秩序建設にあるとして中国にも協力を求める声明を出し,12月に日本軍の防共駐屯等の国交調整方針を示したいわゆる近衛声明を発表した。国民党副総理汪兆銘はこれに呼応して重慶を脱出し対日和平を提唱した。しかしこれに呼応する軍閥もなく,国民政府を切り崩せなかった汪一派に対する日本の態度は冷たかった。…

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