広州(読み)こうしゅう

精選版 日本国語大辞典 「広州」の意味・読み・例文・類語

こうしゅう クヮウシウ【広州】

中国広東省の省都。珠江三角州の北端にあり、華南地方の政治、経済、文化の中心となっている。秦代に南海郡、三国呉代に広州が置かれ、唐代以後は華南最大の貿易港として繁栄した。

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デジタル大辞泉 「広州」の意味・読み・例文・類語

こうしゅう〔クワウシウ〕【広州】

中国広東カントンの省都。珠江デルタの北端に位置する商工業港湾都市。古来、華南最大の貿易港として栄え、アヘン戦争以後は革命運動の中心地となった。人口、行政区852万(2000)。コアンチョウ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「広州」の意味・わかりやすい解説

広州
こうしゅう / コワンチョウ

中国南部、広東(カントン)省中部の副省級市(省と同程度の自主権を与えられた地級市)で、商工業・港湾都市。広東省の省都。略称は穂。珠江(しゅこう)デルタの北端、東江・西江・北江の合流点に位置し、香港(ホンコン)特別行政区、東南アジアへの中国の南の玄関にあたる交通と貿易の中心地である。越秀(えつしゅう)、海珠(かいしゅ)、黄埔(こうほ)など11市轄区を管轄する(2018年時点)。戸籍人口822万3000、常住人口1283万8900(2012)。市部の中心は珠江北岸である。

 亜熱帯モンスーン気候に属するため年平均気温は20~22℃と温かく、年降水量は1720ミリメートル。一年中各種の花が咲くところから花の町ともよばれ、春節(旧正月)の花市(はないち)が有名である。また「食は広州にあり」といわれるように、中国南部の料理を代表する広東料理の本場でもある。福岡市、登別(のぼりべつ)市と姉妹都市提携を結ぶ。

[青木千枝子・河野通博・編集部 2018年3月19日]

歴史

欧米人の呼称カントンCantonは、ポルトガル人のいうKhantãoがなまったもの。別名は花城または羊城。古くは越、粤(えつ)、百粤などといわれた漢民族以外の住地。秦(しん)の始皇帝が紀元前214年、犀角(さいかく)、象牙(ぞうげ)、ひすいなどを求めて経略したころから史書に現れる。漢以後、漢民族の移住者も増え、南海諸国やミャオ族(苗(びょう)族)との珍貨の交易で栄え、8~12世紀の唐・宋(そう)代には、アラビア商人の来航で発展した。綿、象牙、薬材、香料、宝石などを輸入、絹、茶、陶器などを輸出し、その額も多く、市舶司(しはくし)を置いて徴税し、蕃坊(ばんぼう)という自治的居住地を設けて12万の外国人を住まわせた。

 元以後はやや衰えたが、明(みん)の中期1516年、ポルトガル人の来航以後ふたたび栄え、清(しん)代にはスペインなど後続の各国の商船も訪れるようになり、さらに繁栄した。粤海関(えっかいかん)という税関と広東十三行という政府御用商館とを置いて、外国貿易船と対応し貿易を制限したのでアヘン戦争を誘発し、2年後の南京(ナンキン)条約で開港された。

 以後、順調に発展し、新思想の流入地、革命の基地としても知られ、現在は春・秋2回、国際交易会が開かれて、海外貿易の拠点としての本領を発揮している。なお珠江には30万の水上生活者(蛋民(たんみん))がいたのもこの市の特徴であったが、2015年には7000人程度に激減していると報道された。

[星 斌夫 2018年3月19日]

産業・交通

華南地区の交通の要衝で、京広線、広深線(広州―深圳(しんせん))、広茂線(広州―茂名(もめい))、広梅汕(こうばいさん)線(広州―梅州(ばいしゅう)―汕頭(スワトウ))や、2009年開通の武広高速鉄道(武漢(ぶかん)―広州)、2014年開通の貴広高速鉄道(貴陽(きよう)―広州)などが通じる。港は市内の広州港のほかに、1937年東郊に開かれた黄埔港がある。広州港の2016年(速報値)のコンテナ取扱量は1889万TEU(twenty feet equivalent unitの略で20フィートのコンテナに相当する換算値)で、世界7位であった。市中心部の北約28キロメートルには広州新白雲国際空港があり、国内主要都市のほか、アジアや中東、ヨーロッパの各都市とも結ばれる。

 市内には鉄鋼、造船、機械、化学などの重化学工業があり、とくにテレビ、洗濯機、冷蔵庫など家電工業が盛んである。軽工業では伝統的な絹・麻・綿などの繊維工業、果物・魚類などの缶詰、製紙、雑貨などがある。

 市街には亭子脚(アーケード)のある古い繁華街がみられる一方で、高層のビルが建ち並ぶ。1980年代以後の改革開放政策の重点が広東省に置かれていたために、外国資本との協力による工業化は省都たる広州でも盛んであった。1984年には沿海対外開放14都市の一つに指定され、黄埔地区の経済開発を中心に、先進的な工業技術を導入した工場建設が進展した。2000年以降は自動車部品、電子部品、石油化学工業が基幹産業となっており、トヨタ自動車本田技研工業(ホンダ)をはじめとする日本企業が拠点を置いている。

[青木千枝子・河野通博・編集部 2018年3月19日]

文化・観光

市内には古代南越国の王墓のほか、珠江の堆積作用による陸化の跡をたどるように、古い海岸線に沿って六榕寺(ろくようじ)(537建立)、光孝寺(こうこうじ)(旧称、制旨寺(せいしじ)。建立時期不明)、懐聖寺(かいせいじ)(唐代建立)などの古寺が残っており、北部の越秀山には明代に建設された鎮海楼(ちんかいろう)がある。アヘン戦争以後は辛亥(しんがい)革命の拠点となったため、革命の歴史を語る建造物も多く、1911年の黄花岡(こうかこう)事件の英雄墓地、1927年の広州コミューンの犠牲者を祀(まつ)る広州起義烈士陵園、農民運動講習所跡、中山(ちゅうざん)記念堂、黄埔軍官学校などがある。

 省都として政治の中心であるばかりでなく文化の中心でもあり、総合大学である中山大学のほか、華南工学院、中山医学院、華南農学院などの単科大学が多数ある。また曁南(きなん)大学は華僑(かきょう)、香港、マカオ、台湾籍の学生、帰国華僑を主として受け入れる。そのほか各種の専門学校も多い。香港などとともに広東語使用の中心地としても知られる。

[青木千枝子・河野通博・編集部 2018年3月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「広州」の意味・わかりやすい解説

広州 (こうしゅう)
Guǎng zhōu

中国,広東省の省都。華南最大の都市で,広東省の政治,経済,文化,交通の中心地である。広東(カントン)ともいわれる。面積1万1300km2,人口852万(2000)。別名は羊城または穂城。珠江三角州の北端に位置し,西江,北江,東江の合流地。市街は珠江の両岸にまたがり,花,従化,新豊,竜門,増城,番禺の6県を管轄する。広州周辺の地勢は北高南低で,平均気温は1月が13.6℃,7月が28.2℃,年平均が21.9℃である。このため四季を通じて花が絶えることはなく,〈花の街〉(花城)と呼ばれている。

 もと百越族の居住地で,前9世紀ごろには集落が形成されていた。秦の始皇帝が前220年に50万の大軍を派遣して嶺南を征服し,ここに番禺県を置き南海郡の治所とした(前214)。のち中原の混乱に乗じ,趙佗が前203年に南越国を建てここを都としたが,前112年に漢に攻め滅ぼされた。漢の武帝は漢人の罪人を移住させて漢化政策を推進し,また南方の特産であった犀角,象牙,翡翠,珠璣などを番禺に集荷し,中原に積み出した。三国の呉がここを中心に広州をおいたのがその名の始まりである。隋代には南海県と改められたが,唐代より番禺・南海両県が併置され,唐・宋の広州,元の広州路,明・清の広州府の治所であった。辛亥革命の後,1921年に市政庁が成立し,1925年正式に市が設けられた。南海県治は仏山に移り,番禺県治も南郊の市橋鎮に移った。1935年に中央直轄市に昇格したが,1954年に省轄市に改められた。

 古来より南海貿易の門戸としてインドシナや南洋と通商し,インド以西から来航するものもあったが,著しく発展したのは唐代である。この時期に大庾嶺(だいゆれい)を越える陸路と,ベトナムへ至る水路が開かれ,広州の水陸交通の要衝としての地位が強化され,対外貿易の中心として繁栄した。その盛況は879年(乾符6)正月に黄巣が広州を攻陥した際に,居住していたペルシア人,イスラム教徒など12万人を殺害した記事からも知られる。五代十国時代には封州刺吏劉謙の子孫が南漢を建国し,広州に王都興王府を置いたが,政治の混乱が激しく,広州貿易は衰微した。宋が全国を統一した後,971年(開宝4)に市舶司が設置され,中国第1の貿易港となり,貿易額も全国総額の90%を占めた。南宋の時代には泉州の方が国都杭州に近かったこともあって急上昇して広州を凌駕し,広州のアラビア人で泉州に移住したものも多かった。元・明代にも市舶司が置かれ,占城(チャンパ),暹羅(シャム),西洋各国との貿易を行った。1522年(嘉靖1)倭寇を防ぐため海禁政策をとり,広州が事実上唯一の海外への門戸となった。57年ポルトガルが澳門(マカオ)を占領し広州貿易の独占を図ったが,オランダ,イギリス,フランスも続いて進出した。清朝は1685年(康熙24)広州に粤(えつ)海関を設け,官許商人である広東十三行を通してきわめて制限の多い貿易を許し,1757年(乾隆22)には外国貿易を広州にのみ限定した。その時期からイギリスの進出がめざましく,主導権を握るためアヘン戦争をひきおこし,1842年(道光22)南京条約により広州は商埠地として解放され,62年(同治1)租界も設けられる。しかし同条約によってイギリスに割譲された香港や同時に開港された上海により従来の独占的繁栄を失った。また広州は革命運動史のうえでも重要な都市で,アヘン戦争以来反帝闘争の拠点となり,辛亥革命以前から革命運動の策源地で,国民革命軍の北伐はこの地よりおこり,また1927年の広州コミューン(広州起義)は有名である。

 解放前には広州はまったくの消費都市で,工業の基礎は非常に弱かったが,解放後軽工業の急発展のほか重工業も興り,すでに総合的な工業都市となった。市内には石油化学コンビナート,大型の造船所・機械工場があるほか,紡績,製紙,製糖,缶詰,鉄鋼,化学,ゴム,建材,時計,カメラなど各種工業が発達している。また伝統工芸も解放後発展し,象牙,彫刻,玉彫,広彩,広東刺繡,白檀扇子などさまざまな手工芸品が生産されている。

 広州はまた広東省全省の物資の集散の中心地で,省内で生産される砂糖,果実,生糸,穀物,林産物などの積替地点である。中国の対外貿易の発展に伴い,外港として15km東方に黄埔港が建設され,12の万トン級バースが設けられ,2万トン級の大型船の入港が可能である。1957年より毎年春と秋に輸出商品交易会が開催されるが,近年交易会での成約額の中国の貿易全体に占める割合は大幅に低下した。また国内水陸交通の中心で,珠江三角州の水運はいうまでもなく,西江,北江,東江の本支流を利用すれば,広東,広西,貴州,湖南,江西の5省を結ぶことができる。自動車道路は広州を中心にして四方に伸びており,鉄道は京広(北京~広州)のほか,広三(広州~三水),広九(広州~九竜)の3路線の分岐点である。航空路は北京,杭州,上海,南寧など国内の主要都市を結ぶほか,香港,マニラ,バンコクへ向けて国際線も発着する。

 教育・文化施設としては中山大学,広東師範学院をはじめ工学,医学など多くの高等教育機関が設けられ,越秀山を中心に中山紀念堂,広州博物院,人民体育場などが整備された。革命記念地には,三元里の平英団遺跡,黄花崗72烈士墓,農民運動講習所旧跡,中華全国総工会旧跡,広州蜂起烈士陵園等がある。名勝古跡も数が多く,光孝寺,鎮海楼,白雲山,越秀山などが有名である。
執筆者:

秦,南越代初期の墳墓は戦国期の構造を保ち,地方色豊かな土器のほか少量の銅器のみで貧弱である。漢文化の流入に伴い,南越代後半の貴族墓は豊富な副葬品をもち,土器刻銘や〈番禺〉焼印漆器など手工業の発展が見られる。土器は器形,文様に地域性を示す灰釉陶に特色がある。一方,銅鏡,玉器等は長沙と濃いつながりを示す。漢朝の直接支配地となって後,この地は河上・海上交通の要衝で南海物資集散の拠点の一つとして栄えた。前漢中期~後漢の墳墓中発見の船模型と造船所址の発見はそれを裏づける。番禺経由の南海物産は真珠,象牙,犀角,玳瑁(たいまい),香料等で,墳墓出土のガラス器は西方の製品である。また銅鏡,玉器,鉄器類は前代に続き長沙地方との交易で獲得した。墳墓出土の各種形態の家屋模型は番禺の繁栄を物語る。三国~隋・唐代は大型の墓がなく,小型長方形磚室墓が多数築かれる。917-971年の55年間広州は五代南漢国の首都となった。そのうち3代皇帝劉晟の陵が調査され,多量の精美な青磁器が出土している。下って明代中期の保存良好な工部尚書戴縉(たいしん)夫妻墓が調査され,多数の絹織物が原形のまま発見されている。
執筆者:

広州 (こうしゅう)
Kwangju

韓国,京畿道中央部の郡。ソウルの南東に隣接する。漢江の支流に沿って狭い平野がみられるが,大部分は丘陵地となっている。古代に馬韓諸族の根拠地となり,百済(くだら)王朝の基礎を築いた。李朝時代には首都ソウルを防備する四鎮の一つとして南漢山城が築かれた。丘陵地を開墾した畑地では,ソウル特別市の大人口を背景として園芸,畜産,酪農などの商業的農業が盛んとなっている。ソウルの膨脹に伴い,そのベッドタウン化も顕著であり,1973年には郡の一部が城南市として分離された。その後も城南市が拡大している(2005年に人口約93万)のに対して郡人口は減少に転じ,1995年現在9万3195人である。中心地の広州邑は南漢山城への観光拠点としてにぎわっている。
執筆者:

遺跡としての広州の一部は,城南市やソウル市街地の拡大に伴って,ソウル特別市の城東区・江西区・江南区などに分布している。朝鮮半島中部で最大の河川である漢江の中流左岸地域一帯にあたる。早くから百済前期の遺跡群にめぐまれ,百済建国の地として知られている。この地域には,櫛目文土器時代(新石器時代)の集落跡として著名な岩寺洞遺跡をはじめ,無文土器時代(青銅器時代)に入ると,可楽洞や駅三洞で住居跡が調査されている。紀元前18年に百済の始祖温祚(おんそ)王は慰礼城で建国し,紀元後,都を漢山に移し,475年に熊津(ゆうしん)(現,公州)に遷都するまでここに都したと伝える。慰礼城の所在地をめぐって諸説があり,いまだ確定していないが,漢山を広州に比定する点では支持者が多い。ソウル市街の中心部から南東方に十数km,漢江を渡った左岸地域に風納洞の土城が残る。この付近は《三国志》魏書韓伝にみえる馬韓と一部で重なるようであるが,一方で後漢末以来の魏の帯方郡の所在地と推定する立場もある。後者の場合,風納洞土城は帯方郡治跡にあてられよう。百済は,馬韓諸国の一つである伯済国から古代王国に成長するが,そのころの王都は風納洞の土城を再利用したものと思われる。風納洞土城の南東に隣接する夢村土城については,ほとんど何もわかっていない。これら土城の南側にあたる石村洞,可楽洞,芳荑洞の一帯には,百済前期にあたる積石塚や横穴式石室墳などが群集していたが,現在ではその一部分しか残っていない。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「広州」の意味・わかりやすい解説

広州【こうしゅう】

中国,広東省の省都。上海,北京に次ぐ中国第三の都市で,2010年国務院により,国家五大中心都市の一つに指定された。古名番禺(ばんぐう),古代では百越の地である。乾隆帝時代の1757年唯一の対外貿易港となり,1842年の南京条約以後発展した。華南最大の政治・商工業・文化の中心地である。京広鉄路をはじめ広三(広州〜三水)・広九(広州〜九竜)の三つの鉄路の連絡点にあり,また珠江の船運の基点でもあるが,海港としては浅いので,東15kmの黄埔が外港となっている。【とう】小平による開放政策で,深せん・珠海の経済特区を有する広州は急速な経済発展を遂げ,対外貿易額は全国第3位となる。貴州・湖南・江西諸省との国内貿易も盛ん。地下鉄,高速道路も整備され,造船,自動車,セメント,製紙,化学繊維などの近代工業や電子工業も発展している。文化教育機関も多く,広東,中山,曁南の各大学,中山医学院,華南化工学院,南方日報社などがある。中国革命の発祥地。孫文はこの地を臨時首都とし,多くの革命家・軍人を養成した黄埔軍官学校を設置した。1927年の中国共産党の武装蜂起広州コミューンが有名。日本では戦前からカントンと呼びならわしてきた。823万人(2014)。
→関連項目海関海禁経済特区市舶司中華人民共和国

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「広州」の解説

広州(こうしゅう)
Guangzhou[中],Canton[英]

広東(カントン)ともいう。中国広東省の省都。古来華南第1の海港都市である。広州の名は三国のに始まり,海港としての繁栄は唐以後のムスリム商人の往来を契機とする。当時初めて市舶司(しはくし)が置かれ,外国人居留地(蕃坊(ばんぼう))も設けられた。明以後ヨーロッパ人の来航で一層繁栄し,清では1757年に貿易港を広州港に限定したので中心港となったが,清末の南京条約以後,他港の開港でその地位は変化した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「広州」の解説

広州
こうしゅう
Guǎngzhōu

中国南部,広東 (カントン) 省の省都・港市。広東ともいう
珠江下流の港市。漢代より貿易港として栄え,唐代には最初の市舶司が置かれ,イスラーム商人も多数居住した。その地理書には「カンフー」と記され,繁栄ぶりが伝えられている。南宋〜元代に一時泉州に繁栄を奪われたほかは,清末期までその地位を保ち,特に清朝は1757年から外国貿易を広州1港に限ったため大いに繁栄した。しかし,アヘン戦争後に諸港が開港されると,貿易港としての地位はやや低下したが,1980年代以降,改革開放が進む中,中国最大級の貿易港として繁栄している。

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