武部村(読み)たけべむら

日本歴史地名大系 「武部村」の解説

武部村
たけべむら

[現在地名]鹿島町武部

石動せきどう山麓に位置し、東半分は山地、西は平野で畑地がち。内浦街道沿いに南の二宮にのみや村、北の久乃木くのき村とともに街村を形成する。地名は建部の居住地に由来するという(能登志徴)。武部村を名字の地とする武士に、寿永二年(一一八三)四月木曾義仲に味方し越前燧城合戦で平氏方と戦って敗れた武部某がおり(覚一本「平家物語」)、天正元年(一五七三)の気多社檀那衆交名(気多大宮司家文書)のなかに、能登畠山氏の家臣として「武部殿」がみえる。しかし当地における武部氏の活動は不明であり、わずかに当地に所在する多茂城跡が武部判官師澄の居城であったと伝えるのみである(三州志)。同五年一一月の気多社免田指出案(気多大宮司家文書)に神官方の収納分として「たけへ村」より一〇俵とみえ、府中ふちゆう(現七尾市)勝禅寺の知行分となっていた。


武部村
たけべむら

[現在地名]斐川町三絡みつがね

宍道湖南西にあり、北は羽根はね村、南は矢筈やはず山・龍岩たついわ山山嶺上で上阿宮かみあぐ村・下阿宮村に接する。村の北にわずかな平坦地があり、ほとんどが丘陵である。村の南に標高一二〇メートルの武部峠があり、出雲郡と飯石いいし郡をつなぐ交通の重要な峠であった。文政七年(一八二四)の有高輪切帳写(県立図書館蔵)に記載された輪はさかい輪・西にし輪・おく輪。慶長七年(一六〇二)の出東郡建部村御検地帳写では田方一六町九反余・分米二三五石余、畑方二町一反余・分米九石余、屋敷数二五(うち役屋敷一八)とある。


武部村
たけぶむら

[現在地名]馬頭町健武たけぶ

矢又やまた村の北に位置し、北は大山田下郷おおやまだしもごうなど、東は大内おおうち村、西は馬頭村。おもな集落は西流する武茂むも川流域に発達。古くは馬頭村と一村で武茂村と称したが、寛永期(一六二四―四四)以前、二村に分れたという(水府志料)。同一二年の水戸領郷高帳先高(茨城高等学校図書館蔵)によれば高八〇四石余、ほかに新田一四石余。寛永二一年の知行割郷帳(水戸彰考館文庫蔵)では全村鈴木式部の給地。慶安郷帳では田高三九八石余・畑高七六九石余、うち寺社領一石余。旧高旧領取調帳では健部村と記され、江戸後期以降、健部と表記するようになったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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