水主町(読み)かこまち

日本歴史地名大系 「水主町」の解説

水主町
かこまち

[現在地名]松島町松島

水手町・水夫町とも書き、一般には「おかこまち」とよんだ。松島海岸五大ごだい堂の付近から瑞巌寺北隣陽徳ようとく院山門に向かう切割りの道路があり、道の両側に水主衆の集住する所があった。水主の成立について、慶長九年(一六〇四)頃瑞巌寺建立の用材を紀州熊野から運び、時には藩米を江戸に運ぶのに船一六隻を使用、その後安芸広島藩から一六人八組の船員を譲ってもらったとの伝えがある(松島町誌)。水主衆の家は大抵三間の間取りで、それに勝手がつき、勝手の隣は納戸になっている。道に面した一間は出格子と蔀戸になっており、蔀戸には幅三尺、高さ一尺余のぬれ縁がついている。屋根は萱葺で、門は棟門か冠木門であった(同書)

水主衆の人数は初め一六人であったが、四代藩主綱村の頃には四四人に達した(松島町誌)。仙台府諸士版籍によると、奉行支配下で判金一枚六人分が二名、小判五両五人分が一名、小判三両二分銀四両三人分が一名、小判二両二分三人分が三名、小判二両三分が四名、小判一両銀一二両八分三人分が三二名、小判一両三人分が一名の計四四名であった。


水主町
かこまち

[現在地名]中村区名駅南めいえきみなみ二丁目

「府城志」に「西水主町、先年御水主屋敷ありしが、享保八卯年御払地になり町屋を取建、因て如此唱ふ」とある。「尾張志」によれば「下納屋町の南の家つゝき堀川はた西側はかりの片側町なり、もと御水主之者の役宅なりしを享保八年町家とす」とある。町の成立は、享保八年(一七二三)、以前に水主屋敷があった跡にできた片町であったので「西水主町」と称したという。宝永六年(一七〇九)頃の尾府名古屋図(蓬左文庫蔵)をみると、名古屋城の西南、ほり川の西、川の東に囲まれた地域に御水主と記されている。


水主町
かこまち

[現在地名]大村市水主町

ほん町の北西に位置する。町名は定水主が集住したことに由来し、元禄八年(一六九五)町奉行の支配となる以前は船奉行の管轄で、同年「始テ水主町ヲ市中ニ列ス」ことになった(九葉実録)。町口に石橋が架けられ、また辻番一ヵ所が置かれていた(大村見聞集)。「大村郷村記」によれば水主町筋の本町で、枝町にはま(水主町浜町)があり、町並は本町境の石橋際から田原の方出口棒鼻までの長さ五八間余、幅は馬場広入口が二間五尺余で石橋際が三間余。


水主町
かこまち

[現在地名]中区加古かこ町・中島なかじま町・住吉すみよし

東を元安もとやす川に、西はほん(太田川)に挟まれ、南は水主町新開、北は町方の木引こびき町に接する。武家屋敷町。寛永年間広島城下絵図では城下南端に描かれており、「か子町」とある。藩船や一千石以上の侍士の軍役として常備された船舶の船頭・水主が多く居住したので町名にその名が付された。

早くから太田おおた川の主流である本川・元安川の水運が重視され、藩府の船屋敷(船手方役所)が設けられた。船入には藩船が係留され、船蔵や藩船の新造・修理に当たる船作事所などが置かれた(新修広島市史)


水主町
かこまち

[現在地名]唐津市水主町

市街地の東部、松浦川沿いにあり、藩政期は郷方に属した。寺沢氏時代は船奉行支配の常備的な御水主おんかこの集落で、唐津藩水軍の根拠地御船宮おふなみやの周辺に設けられ、正保唐津城絵図に「加古町」とある。寺沢氏の改易で日雇的な日高ひだか水主役となり、郷方に属するようになった。土井氏時代唐津村の枝村として独立し、庄屋が任命されている。

水主町隣接の新堀しんぼりは藩政期の満島みづしまへの渡舟場でもあるが、松浦川を上下する上荷船の船頭が多く住み、頭取は神田家であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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