水沢城跡(読み)みずさわじようあと

日本歴史地名大系 「水沢城跡」の解説

水沢城跡
みずさわじようあと

[現在地名]水沢市 表小路

北上川の右岸、胆沢いさわ平野の中央に位置する平城で、外堀内の総面積一万九千五一一坪(約六町五反余)。築城時期は不明だが、最初は葛西家臣柏山氏により大林おおばやし(現胆沢郡金ヶ崎町)の支城として築かれたものと考えられる。当地方が伊達氏(仙台藩)領となってからは、白石氏・柴田氏・石母田氏の三氏を経て、寛永六年(一六二九)八月藩主伊達氏一門伊達宗利(本姓留守氏)が入城、以来明治維新まで二四〇年に及んだ。臥牛がぎゆう城・大休だいきゆう城の別称があるが、江戸時代の正式呼称は水沢要害である。

〔城主〕

「塩竈村安永風土記」に葛西家臣蜂谷次郎左衛門(後号破鏡)が居館したと伝えるが原拠が明らかでないとある。伝説には蜂谷氏は初め塩竈しおがま村字要害ようがい(現在の石田)に住し、さらに地を水沢に定めここに移ったという。一方源姓佐々木系譜(宮城県佐々木家蔵)によると、足利義持禁衛士佐々木将監繁綱は葛西氏を頼って奥州に下り、胆沢郡に采地一千町歩を給され、水沢城に住したという。文明一七年(一四八五)には佐々木信綱が気仙けせん有住ありす(現住田町)の戦に活躍、大永三年(一五二三)の大崎氏との戦には信綱の子信義が出陣、天正一六年(一五八八)気仙郡浜田はまだ(現陸前高田市)の乱には佐々木将監が大功を立てるなど、佐々木氏は歴戦の勇者であったが(同系譜)、同一八年八月豊臣秀吉の奥羽仕置が行われ葛西氏とともに没落、登米とめ(現宮城県)に隠れたという。その後葛西氏旧領は秀吉の直臣木村吉清・清久父子に与えられ、水沢城にはその臣松田太郎左衛門が入ったが、木村氏の苛政は葛西氏の旧臣や領民の反感を買い、一〇月には大規模な一揆が起きた。いわゆる葛西大崎一揆で、これを鎮圧した伊達政宗に葛西氏旧領が与えられた。

「貞山公治家記録」の天正一九年九月七日条に「公御名代トシテ、南部境胆沢郡水沢城ヘ、白石右衛門宗実ニ御人数相副ヘ差遣サル」とあり、同日付の政宗宛大谷吉継書状(伊達家文書)に「仍而水沢之城為代官、白石右衛門佐方可被差越由、承届候、(中略)然者右普請之義、随分堅申付候」とあって、当城に白石宗実が代官として派遣され、城の修築が命じられたことが知られる。白石氏は一万六千石を知行し藩境警備に当たったが、息宗直の時の慶長九年(一六〇四)一二月、和賀氏岩崎の乱の責任を問われ、登米郡寺池てらいけ(現宮城県登米町)に知行替えとなった。治績としては北上川の改修事業があげられる。同一二年柴田兵部宗朝が入城したが(知行高二千石)、宗朝は二年にして没し子惣四郎宗朝は幼少にして治績をみることなく、元和二年(一六一六)二月登米郡米谷まいや(現宮城県登米郡東和町)に転じ、米谷の石母田宗頼と入れ替った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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