日本歴史地名大系 「水沢城跡」の解説
水沢城跡
みずさわじようあと
北上川の右岸、
〔城主〕
「塩竈村安永風土記」に葛西家臣蜂谷次郎左衛門(後号破鏡)が居館したと伝えるが原拠が明らかでないとある。伝説には蜂谷氏は初め
「貞山公治家記録」の天正一九年九月七日条に「公御名代トシテ、南部境胆沢郡水沢城ヘ、白石右衛門宗実ニ御人数相副ヘ差遣サル」とあり、同日付の政宗宛大谷吉継書状(伊達家文書)に「仍而水沢之城為代官、白石右衛門佐方可被差越由、承届候、(中略)然者右普請之義、随分堅申付候」とあって、当城に白石宗実が代官として派遣され、城の修築が命じられたことが知られる。白石氏は一万六千石を知行し藩境警備に当たったが、息宗直の時の慶長九年(一六〇四)一二月、和賀氏岩崎の乱の責任を問われ、登米郡
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報