江田郷(読み)えだごう

日本歴史地名大系 「江田郷」の解説

江田郷
えだごう

新田庄内の郷の一で、上江田・中江田・下江田一帯。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)で、新田義重から庶子のらいわう(義季)の母に譲った空閑郷々一九ヵ郷のうちに「えたかみしも」とみえる。義季は新田世良田家の曩祖。上江田は嫡男頼氏・田中殿・浄院(世良田頼氏の娘)の順に相伝され、故田中殿御忌祭梵行所として上江田内田七町地頭職得分に加えて上江田堂垣内一宇・田三町が氏寺の長楽ちようらく(現尾島町)に寄進されている(建治三年一二月二三日「尼浄院寄進状案」同文書)。上江田堂垣内三町は、現上江田内の旧吉祥きつしよう(長楽寺末)門前の小字吉祥免きつしようめんが約三町あることより、この地に比定されている。尼浄院はその後も亡父頼氏の忌日湯木として「上江田村内林」を寄進したが、その地が開発によって作地化したため、改めて「南女塚村田在家」二宇を寄進している(元亨二年一一月二〇日「尼浄院寄進状案」同文書)


江田郷
えたごう

和名抄」高山寺本・東急本ともに「江田」と記し訓を欠く。「芸藩通志」は江田庄といわれた向江田むこうえた江田川之内えたかわのうち高杉たかすぎ廻神めぐりかみ小田幸こだこう大田幸おおだこう志幸しこう木乗きのり糸井いとい海渡うと石原いしはら三若みわか上田うえだ(現三次市)長田ながた岡田おかだ(現双三郡三良坂町)の諸村とする。「大日本地名辞書」は「今神杉村及び田幸村なるべし、神杉に江田川之内の大字あり、和知に向江田の大字ありて、三次川の南方を江田の本郷とす」と記す。


江田郷
えだごう

「和名抄」所載の郷。同書名博本には「江口」と記されるが、高山寺本をはじめ他の諸本は「江田」とする。いずれも訓を欠く。「太宰管内志」は「延陀」と読み、名義に関して水辺に由来するかとする。「続日本後紀」承和四年(八三七)八月一日条や「延喜式」神名帳に宮崎郡所在の江田神・江田神社がみえるので、同社が当郷に所在したことは間違いない。江田神社は現在宮崎市阿波岐原あわきがはらに所在し、かつて同社境内に一〇世紀前後の須恵器などが散布していたということから、おそらくその位置は現在まで遷移していないと思われ、当郷も現在の江田神社を含む一帯であったと考えられる。


江田郷
えたごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本・東急本・元和古活字本ともに衣多の訓を付すが、名博本はエタと訓じている。宝亀四年(七七三)六月八日の僧興弁経師貢上文(正倉院文書)に市原郡江田郷の戸主刑部荒人戸口の刑部稲麻呂(三八歳)がみえ、東大寺に経師として仕えることになっている。刑部は忍坂大中姫(允恭天皇の皇后)の名代。エタと訓じれば、江戸時代の吉沢よしざわ村が古く江田郷と称したというので、その一帯である。


江田郷
えたごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「衣多」の訓を付す。「延喜式」(兵部省)諸国駅伝馬に「江田」駅があり、駅馬・伝馬各五疋が置かれた。同駅は西海さいかい道主道の筑後国境の大水おおむつ駅の次駅に当たり、現玉名郡菊水きくすい町の江田えたが遺称地とされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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