江藤俊哉(読み)えとうとしや

日本大百科全書(ニッポニカ) 「江藤俊哉」の意味・わかりやすい解説

江藤俊哉
えとうとしや
(1927―2008)

バイオリン奏者。東京生まれ。4歳から鈴木鎮一(しんいち)にバイオリンの手ほどきを受ける。1939年(昭和14)、12歳のときに日本音楽コンクールで第1位となり注目を集めた。1948年(昭和23)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)本科を卒業後、斎藤秀雄らと弦楽四重奏団を結成し室内楽活動を行う。渡米してニューヨークカーティス音楽学校ジンバリスト師事、在学中の1951年にカーネギー・ホールでデビュー。1952年にカーティス音楽学校を卒業し同校の教授を務めた。1961年(昭和36)帰国ののち独奏者として国内外で活躍するとともに、桐朋(とうほう)学園大学で後進の指導にあたり、国際的に活躍する多くのバイオリン奏者を育てた。量感豊かで輝かしい音色をもつビルトゥオーゾ名人芸)的な江藤のバイオリン演奏は、本場ヨーロッパの音楽をモデルとして演奏技術の向上に貢献し、第二次世界大戦後の日本の楽壇をリードする存在となった。1979年芸術院賞受賞、87年より芸術院会員。1997年(平成9)から2004年まで桐朋学園大学学長をつとめた。

[楢崎洋子]

『『江藤俊哉 ヴァイオリンと共に』(1999・音楽之友社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「江藤俊哉」の意味・わかりやすい解説

江藤俊哉
えとうとしや

[生]1927.11.9. 東京,東京
[没]2008.1.22. 東京
バイオリン奏者。中学生のときに新交響楽団(→NHK交響楽団)と共演する実力を示し,東京音楽学校とアメリカ合衆国カーティス音楽院研鑽を積んだ。1952年に同音楽院を卒業,2年後に同音楽院教授に就任,演奏活動も活発に展開。1961年からは活動の拠点を日本に移し,桐朋学園大学や上野学園の教授として多くの後進の育成にあたる一方,世界の一流オーケストラとの共演も続けた。伊福部昭三善晃など日本人作曲家のバイオリン協奏曲を多数初演したことでも有名である。またエリザベート王妃国際音楽コンクールなど海外コンクールの審査委員を歴任,1981年日本国際音楽コンクール審査委員長となり,1996年には江藤俊哉ヴァイオリン・コンクールを創設した。1997年桐朋学園大学学長に就任,1999年同大学院学長を兼任。1979年日本芸術院賞,1987年日本芸術院会員。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「江藤俊哉」の解説

江藤俊哉 えとう-としや

1927-2008 昭和後期-平成時代のバイオリニスト
昭和2年11月9日生まれ。鈴木鎮一,モギレフスキーに師事。12歳で音楽コンクール1位入賞,天才少年とうたわれた。昭和23年東京音楽学校(現東京芸大)卒業後渡米,カーティス音楽院でジンバリストにまなぶ。卒業後同校の教授となり,世界各地で演奏。37年帰国し,演奏,教育の両面に活躍。62年芸術院会員。平成9年桐朋学園大学長。平成20年1月22日死去。80歳。東京出身。

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世界大百科事典(旧版)内の江藤俊哉の言及

【バイオリン】より

…大正時代にはジンバリストEfrem Zimbalist(1889‐1985),F.クライスラー,J.ハイフェッツなどの名演奏家が多数来日し,バイオリンへの関心が高まった。しかしバイオリンが一般化したのは昭和にはいってからであり,第2次世界大戦直前の時期には諏訪根自子,巌本真理,江藤俊哉,岩淵竜太郎などの演奏家が活躍している。第2次大戦以後,演奏,製作技術は急速な進歩を遂げ,バイオリンが衰退しつつあるヨーロッパに代わって,世界各国で独奏家としてまた交響楽団の一員として活躍する日本人演奏家が増大している。…

※「江藤俊哉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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