精選版 日本国語大辞典 「劉少奇」の意味・読み・例文・類語
りゅう‐しょうき リウセウキ【劉少奇】
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中国の政治家。湖南省出身。毛沢東(もうたくとう)も学んだ長沙(ちょうさ)の第一師範に在学したあと、モスクワの東方労働者大学に留学、帰国して1920年社会主義青年団に加入、翌1921年中国共産党に入党、1922年から中国労働組合書記部書記に任じ、湖南省安源炭鉱の争議を指導。1925年中華全国総工会副主席となり、広州、ついで武漢で活動、上海(シャンハイ)では五・三〇事件を指導。国共分裂後は国民党支配地区(白区)で地下工作に従事。1932年江西ソビエト地区に入って長征に参加、長征途次の遵義(じゅんぎ)会議では毛沢東支持の側にたった。陝北(せんほく)から北京(ペキン)に潜行、党地方局、中原局、華中局などの書記として、白区工作を行い、1941年、新四軍事件が起こると、日本軍占領下を通って新四軍地区に赴き、その政治委員として新四軍再建にあたった。1943年延安に戻り、中央書記処書記、人民革命軍事委員会副主任などに任じ、1945年の第7回党大会では中央政治局副主席として毛沢東主席に次ぐ地位についた。その間『共産党員の修養を論ず』(1939)、『党の組織を論ず』(1945)、『国際主義と民族主義』(1948)などの著作を発表、理論面でも重きをなした。1949年新中国成立とともに中央人民政府副主席、人民革命軍事委員会副主席。1954年の第1期人民代表大会では常務委員会副委員長。1956年の第8回党大会では政治報告を行い、党副主席となる。1959年には毛沢東退任の後を受けて国家主席。大躍進政策が行き詰まったあとの調整政策では、鄧小平(とうしょうへい)総書記とともに経済回復に努めたが、そのときの政策が「三自一包」(自由市場、自留地、自営業を多くし、農業生産を各戸請負制とする)として、のちに批判の的とされた。1966年、文化大革命が開始されると、その「三自一包」政策や、階級「協調」論などがあげつらわれ、「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」「中国のフルシチョフ」として、王光美夫人とともに激しく批判され、1969年、第9回党大会で除名、公職剥奪(はくだつ)の処分を受けた。同年、河南省で死去。1980年名誉回復の措置がとられた。
[安藤彦太郎]
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1898~1969
中国現代の政治家。中国共産党の代表的指導者の一人。湖南省寧郷(ねいきょう)の人。夫人は王光美(おうこうび)。1921年ソ連に留学,中国共産党成立直後に入党。帰国後,安源炭鉱の労働運動,ついで五・三〇運動などを指導した。国共分裂後,地下工作に従事した。32年江西ソヴィエト区に入り,労働組合部門を担当した。遵義(じゅんぎ)会議では毛沢東を支持し,毛沢東思想に評価を与えてその有力後継者となった。中華人民共和国では各種重要ポストを占め,59年には毛沢東のあとを継いで国家主席についた。62年から鄧小平(とうしょうへい)とともに農民に一定の自由を認める政策を実施して大躍進政策の混乱収拾を図ろうとしたが,毛沢東はこれを警戒した。66年から始まった文化大革命はその標的が自分にあったにもかかわらず,当初それにまったく気づかなかった。のち「資本主義の道を歩む実権派」として批判され,68年党籍を永久剥奪されて失脚,69年に河南省の開封の牢獄で病死した。80年に名誉回復がはかられた。
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…この運動の背景には,社会主義の行方をめぐる激しい路線対立があった。すなわち,社会主義社会にあっては階級闘争は消滅した,重要なのは生産の組織化だ,とする劉少奇らに対して,それと対立する立場をとる毛沢東の対立である。毛沢東は,62年の中共8期10中全会で,社会主義社会を貫いて階級闘争が存在するという過渡期階級闘争理論を打ちだし,それをふまえて社会主義教育運動を発動した。…
…国共関係が悪化すると,41年1月新四軍司令部は安徽省南部で国民政府軍に包囲され,9000人が全滅,葉挺は捕虜となり項英は戦死した(皖南事変)。中国共産党は劉少奇を政治委員,陳毅を軍長とし,7ヵ師編成で新四軍を再建。長江(揚子江)北岸地域を中心に発展。…
…これは,急進路線に立つ毛沢東の強力な指導なしには不可能なことであった。 こうしたなかで,55年の上半期には,急ぎすぎた集団化のひずみを是正するため,中共中央は劉少奇の指導下に〈停止,縮小,整理〉の方針をとって集団化にブレーキをかけ,約3分の1にあたる20万の初級協同組合を解散させた。その直後,毛沢東は党の高級幹部を集めた会議で,〈全国の農村で新しい社会主義的大衆運動がいまや高まりを迎えようとしている。…
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