河田村(読み)こうだむら

日本歴史地名大系 「河田村」の解説

河田村
こうだむら

[現在地名]小松市河田町

かけはし川右岸の平地から丘陵地への境目にあたり、西は小野おの村・国府こくふ村。正保郷帳では高一千八〇三石余、田方八七町九反余・畑方一八町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一千五六一石、免四ツ、小物成は野役七匁・山役八四匁、川役一〇匁(退転)であった(三箇国高物成帳)。明治初年には枝村として上出かみで谷内やちたち下出しもでがあり、本籍一五五戸、人数男三七八・女三五八、馬六、物産に蕃薯・実綿・麻・菜種・桑葉・製茶・生糸・木綿がある(皇国地誌)


河田村
こうだむら

[現在地名]鈴鹿市河田町・神戸かんべ七丁目

鈴鹿川の南、野辺のんべ村の北東にあり、条里制遺構の上に位置する。古く神戸の西方より移ったとの伝説もある。建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)や「神鳳鈔」にみえる「河曲神田内宮五石、外宮三石」の所在を当村に求める説が有力である(五鈴遺響)。また「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条の末尾の「後院御庄内」の七ヵ村のなかに「河曲村」とあるのがここであるともいわれる。


河田村
こうだむら

[現在地名]多気町河田・多気

櫛田くしだ川とはらい川の分流点付近の南方にある。北は弟国おうぐに村、東は岩内ようち(現明和町)、南は東池上ひがしいけべ村、西は兄国えくに村と境する。多気郡の条里に川田里の里名がある。「神宮雑例集」は内宮領として河田御園を記し、「神鳳鈔」の「建久注文定」のうちに内宮領「河田御薗」がみえる。

近世は和歌山藩田丸領。宝永元年(一七〇四)の河田村地詰検地帳が残る(徳川林政史蔵)。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数六二、人数二五八、牛三〇。柿・栗を産し、わらみのを作間稼に作っていた。八王子・弁財天・鎮守御霊之宮の三社、天台律宗長徳寺・万徳寺・円光寺が記されている。


河田村
こうだむら

[現在地名]一宮市浅井あざい河田こうだ

北は木曾川に接し、西は大野おおの村に接する。来徳らいとく寺蔵の明応五年(一四九六)八月阿弥陀如来絵像裏書写(塘叢)に「実如判、大谷本願寺下野報恩寺門徒尾州葉栗郡上門間庄大野郷河田村善了」とみえ、上門真かみかどま庄の大野郷に属していた。天保村絵図によれば概高九九石余のうち四三石余が蔵入地で五五石余が藩士渡辺新左衛門の給知。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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