日本歴史地名大系 「大野郷」の解説
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
「和名抄」伊勢本・東急本は「於保乃」と読む。天平勝宝二年(七五〇)四月四日の優婆塞貢進文(正倉院文書)に「酒見君奈良万呂」「年廿四 安波国長郡大野郷戸主漢人根万呂戸口」とあるのが、年代の確実な史料である。さらに天平宝字五年(七六一)二月二二日の奉写一切経所解案(同文書)には「漢人大万呂」「阿波国那我郡太郷戸主漢人比呂戸口」とあり、この「太郷」は大野郷であろう。当郷について「阿府志」は「上中下大野西方宮内岡柳島等ノ地ナルヘシ未詳」とし、「阿波志」は「今廃村存」とし、また明治一八年(一八八五)編の那賀郡郡誌は「上大野中大野下大野ノ三村其名ノ遺レルモノニテ此近傍ノ諸村ハ此郷ニ属セシナラム」とする。
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおののごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
「和名抄」には訓を欠く。天平二〇年(七四八)四月二五日付写書所解(正倉院文書)には「申願出家人事」として「土師連東人 年十八 労一年 山背国愛当郡大野郷戸主土師連万呂戸口」とあり、郷名が記される。山背国愛宕郡雲下里計帳(正倉院文書)にみえる「戸主出雲臣川内戸別項 出雲臣麻呂売年伍拾弐歳 左頬黒子 右人割附大野郷戸主服部連阿閉戸 随夫」とある大野郷も愛宕郡のそれであろう。寛仁二年(一〇一八)には
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
大野郷
おおのごう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報