デジタル大辞泉
「河野通有」の意味・読み・例文・類語
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こうの‐みちあり【河野通有】
- 鎌倉後期の武将。対馬守。通称彌九郎蔵人。弘安の役に出陣し、元軍の船を襲って敵将を捕虜とし、船に火を放って帰る。法名長福寺天心紹普。応長元年(一三一一)没。
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河野通有
こうのみちあり
(?―1311)
鎌倉中期に活躍した伊予(愛媛県)河野氏正系の武将。御家人(ごけにん)通信(みちのぶ)の孫、通継(みちつぐ)の子で、久米(くめ)郡石井郷にある縦淵(たてぶち)城を本拠とした。1281年(弘安4)弘安(こうあん)の役に伯父通時、子通忠(みちただ)らと筑前(ちくぜん)国博多(はかた)に出動し、防御線である石塁の前に陣を張ったので「河野の後築地(うしろつきじ)」とよばれ驚嘆された。ついで志賀島(しかのしま)の戦いに元(げん)の大艦を奇襲して、功績をあげた。その後西国および熊野浦の海賊を鎮定し、河野氏を中興した。没後、遺骸(いがい)は彼が元寇(げんこう)戦没者の追善のために建立した周布(しゅふ)郡北条郷の長福寺に葬られた。
[景浦 勉]
『池内宏著『元寇の新研究』(1931・東洋文庫)』▽『景浦勉編『伊予史料集成 2 善応寺文書』(1965・伊予史料集成刊行会)』
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河野通有
没年:応長1.7.14(1311.8.28)
生年:建長2(1250)
鎌倉中・後期,伊予国(愛媛県)を本貫地とする武士。通継の子。母は井門長義の娘。六郎,対馬守。伊予国石井郷を相伝知行し,縦淵城を本拠とした。弘安4(1281)年,モンゴル襲来に備えて国を出立するとき,10年のうちにモンゴルが来襲しなかった場合は,異国に渡って合戦するとの起請文を書き,それを焼いて飲んだとされている。弘安の役では,叔父通時,子通忠と共に兵船2艘に乗り,モンゴル軍船に乗り移り武功をたてた。『蒙古襲来絵詞』に「通有この時生年三十二」とある。この合戦の勲功の賞として,肥前国(佐賀県)神崎庄小崎郷を給付されている。そののち,徳治2(1307)年,延慶2(1309)年には関東御教書によって西国ならびに熊野浦々の海賊の追討を命じられている。法名は長福寺殿天心紹普大居士。<参考文献>『蒙古襲来絵詞』『八幡愚童訓』,景浦勉編『河野家文書』,『河野家譜』
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河野通有 (こうのみちあり)
生没年:?-1311(応長1)
鎌倉後期の武士。瀬戸内海島嶼の海賊衆の惣領的な地位にあり,伊予国御家人として1281年(弘安4)の蒙古襲来に伯父の伯耆守通時,子通忠らと,伊予陸海の地頭を率いて出陣した。その恩賞として肥前国神崎荘中山,肥後国下久々村,伊予国山崎荘を領した。また93年(永仁1)には平頼綱討伐に参加し,1307年(徳治2)には幕府から西国および熊野浦の海賊追捕を命ぜられた。
執筆者:小田 雄三
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河野通有
こうのみちあり
鎌倉時代中期の武士。弘安の役 (→元寇 ) に活躍した伊予国の御家人。対馬守。通継の子。幼名は六郎。越智氏の一族であることから越智通有とも称した。モンゴル軍の襲来にそなえて,本国を出発するとき,氏神三島神社に起請文を捧げ,10年以内にモンゴルが襲来しない場合は押渡って戦うと誓い,これを焼いて灰にし,飲み込んだという。弘安4 (1281) 年のモンゴル軍の襲来の際には伊予水軍を率いて博多湾志賀島,能古島などで奮戦し,モンゴルの軍船に小舟で乗込み,敵将をいけどりにして引揚げた。その功によって,肥前国神崎庄を恩賞地として与えられた。その後,鎌倉幕府から,西海および熊野海賊の追捕を命じられたこともある。
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河野通有【こうのみちあり】
鎌倉後期の武士。瀬戸内海島嶼の海賊衆の惣領的な地位にあり,1281年の蒙古襲来(弘安の役)では,伊予国御家人として伯父の通時,子の通忠らと伊予陸海の地頭を率い奮戦した。その恩賞として肥前神崎(かんざき)荘・肥後下久々(しもくぐ)村・伊予山崎(やまざき)荘などを与えられた。1293年には平頼綱(たいらのよりつな)討伐に参加,1307年には幕府から西国と熊野浦の海賊追捕を命じられた。→文永・弘安の役
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河野通有 こうの-みちあり
?-1311 鎌倉時代の武将。
河野通継(みちつぐ)の子。弘安(こうあん)4年(1281)の蒙古襲来の際,伊予(いよ)(愛媛県)の水軍をひきいて参戦。博多湾の上陸阻止用の石塁(せきるい)を背に陣をはり,豪胆ぶりをうたわれる。志賀島(しかのしま)の戦いでも,元船に夜襲をかけ敵将を捕らえる。のち幕府の命で西国の海賊を追捕(ついぶ)した。応長元年7月14日死去。通称は六郎,弥九郎。
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河野通有
こうのみちあり
生没年不詳
鎌倉末期の武将
伊予国の守護。1281(弘安4)年の蒙古襲来には,一族伊予の海賊を率いて奮戦。伯父通時とともに,2艘の小舟で蒙古船を襲い,大将を捕虜にし火を放って帰った話は有名。のち戦功により肥前国神崎庄などに恩賞地を与えられた。
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世界大百科事典(旧版)内の河野通有の言及
【河野氏】より
…承久の乱(1221)では通信が京方に味方し,所領所職の大半を失ったが,その子通久が鎌倉方についたのでかろうじて命脈を保った。モンゴル襲来のときには[河野通有]が活躍し,勲功の賞として肥前国神崎荘などを与えられ,勢力を回復した。また時宗の開祖[一遍]は,河野氏の出身で通信の孫にあたる。…
※「河野通有」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」