博多湾口に位置し、陸から延びた
「志賀の海人」「志賀の浦」は「漁火」「塩焼く」「藻刈る」など生業にかかわる言葉とともに「万葉集」にも多く歌われており、とくに筑前国志賀白水郎歌一〇首(巻一六)は、神亀年中(七二四―七二九)に
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
福岡県北西部,玄界灘から博多湾を分ける海ノ中道(うみのなかみち)の先端にある陸繫(りくけい)島。海図では〈しかしま〉と読む。周囲約11km,面積約5km2。もと糟屋郡志賀町の西半を占めていたが,1971年福岡市に編入された。海ノ中道は東西約12km,幅は最大2km,最狭部0.5km,松原の多い砂丘をなし,東に雁ノ巣(がんのす)の砂嘴,西に西戸崎(さいとざき)があり,後者はJR香椎線の終点。中道の先端は満潮時に一部水没するので満切(道切)(みちきれ)と呼ぶが,1931年の架橋で完全に志賀島と陸路連絡された。島は,おもに花コウ岩からなる南北に長い楕円形の山地(最高169m)で,西側緩斜面には畑,水田が開け,対馬海流による温暖な気候を利用してビワやイチゴなどの早期出荷も行う。半農半漁の志賀島,勝馬,弘(ひろ)の3集落がある。倭奴国王印(わのなのこくおういん)(金印)の出土地として有名で,海上守護神で朝鮮鐘(重要文化財)など文化財の多い志賀海(しかうみ)神社,元寇(げんこう)ゆかりの蒙古塚,火焰塚など史跡に富む。また玄海国定公園に属し,海水浴場,国民休暇村などがある。福岡市街からバス,博多港から船の便がある。
執筆者:土井 仙吉
古代の志賀島は《古事記》《日本書紀》《万葉集》《風土記》にみられる〈志賀白水郎(しかのあま)〉拠点であり,また博多湾口を扼す位置にあって,海上交通などで重要な位置を占めていた。志賀海神社の祭神は阿曇系の海人の祭るいわゆる綿津見三神(底津綿津見神・中津綿津見神・表(うわ)津綿津見神)である。1784年(天明4)に島で発見された金印は後漢の光武帝が57年(建武中元2)に奴国の使者にさずけたものとされている。
執筆者:勝浦 令子 1192年(建久3)以前に長講堂領の荘園となるが,立荘の事情や田数は不明。本家職は後白河法皇から皇女宣陽門院を経て,のちに持明院統の伝領となった。年貢は米100石,公事として正月に御簾,御座,砂,3月に砂,5月に移花,砂,8月に布,月ごとに御菜を貢進し,また5月上旬門兵士3人を負担した。博多湾の突端にあるので,弘安の役では蒙古軍に占領され,肥前の鷹島とならぶ主戦場となった。鎮西管領一色範氏の兵粮料所にあてられたため家人によって濫妨(らんぼう)をうけた。足利直義や義詮が同島雑掌に返付を命じたが,武士による押領は続き,1407年(応永14)には領家長講堂の支配は不知行となった。15世紀中ごろ,大内氏の北九州進出によって,大内盛見は島の倭寇を配下に収め,大内持世は39年(永享11)志賀海神社を再興しており,大内氏の領するところとなった。80年(文明12)宗祇の大宰府,博多,志賀島への筑紫紀行は大内政弘の助力によるところ大であった。
執筆者:正木 喜三郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
福岡県北西部、玄界灘(げんかいなだ)から博多(はかた)湾を限る海の中道(うみのなかみち)先端の陸繋島(りくけいとう)で、福岡市東区に属する。周囲約11キロメートル、面積5.72平方キロメートルで、やや南北に長い楕円(だえん)形をなす。最高標高169メートル。おもに花崗閃緑(かこうせんりょく)岩からなる山地状の島で、東側は急崖(きゅうがい)が発達している。海の中道先端の砂嘴(さし)は満潮時には水没するため、志賀島橋で結ばれている。架橋付近に漁業集落の志賀、北部に農業集落の勝馬(かつま)、西岸に半農半漁集落の弘(ひろ)などの集落がある。産業は、北西緩斜面において対馬(つしま)暖流による温暖な気候を利用してビワ、ミカン、イチゴ、野菜の促成栽培が行われ、玄界灘の一本釣り、小型底引網などの漁業も盛んである。玄海国定公園に属し、1784年(天明4)農民が発見した金印「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」(国宝)の出土地である金印公園や、元寇(げんこう)古戦場跡の蒙古(もうこ)塚、海の守護神として知られる志賀海神社(しかのうみじんじゃ)などの史跡に富む景勝地。島内には休暇村をはじめ国民宿舎、展望台、海水浴場などの施設も整備され、夏は海水浴客、春・秋はハイキング客でにぎわう。古くは『和名抄(わみょうしょう)』に糟屋(かすや)郡志珂郷(しかごう)と記載され、『万葉集』以降歌枕(うたまくら)としても広く知られ、島内には万葉歌碑が多く建っている。JR香椎(かしい)線終点西戸崎(さいとざき)駅からバスが、博多港から市営渡船が通じている。人口1438(2020)。
[石黒正紀]
『筑紫豊著『金印のふるさと志賀島物語』(1980・文献出版)』
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…海ノ中道は東西約12km,幅は最大2km,最狭部0.5km,松原の多い砂丘をなし,東に雁ノ巣(がんのす)の砂嘴,西に西戸崎(さいとざき)があり,後者は国鉄香椎線の終点。中道の先端は満潮時に一部水没するので満切(道切)(みちきれ)とよぶが,1931年の架橋で完全に志賀島と陸路連絡された。島は,おもに花コウ岩からなる南北に長い楕円形の山地(最高169m)で,西側緩斜面には畑,水田が開け,対馬海流による温暖な気候を利用してビワやイチゴなどの早期出荷も行う。…
※「志賀島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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