油津湊(読み)あぶらつみなと

日本歴史地名大系 「油津湊」の解説

油津湊
あぶらつみなと

[現在地名]日南市油津・油津一―二丁目など

平野ひらの村の南東部、日向灘に突き出た大節おぶし(東側、尾伏ノ岬とも)長崎ながさき(西側)に挟まれた湾部に発達した湊。近世には飫肥おび城下の外港の役割を果し、飫肥藩主も当初は参勤の折に当湊から乗船している。当湊および南に続く大堂津おおどうつ目井津めいつ外浦とのうら(現南郷町)の各湊を合せて飫肥領四浦とよんでいたが、四浦のなかでも当湊が最も賑いをみせ、湊に面して町場も発達していた。なお天和―貞享年中(一六八一―八八)に湊と北方を流れる広渡ひろと川とを結ぶ堀川ほりかわ運河が開削されている。応安六年(一三七三)一一月二六日、野辺盛隆は飫肥きた山西さんせいの時衆道場「油」御道場(のちの恩徳寺)に対して同道場近くの荒野を敷地・山野として寄進している(「野辺盛隆寄進状写」野辺文書)。応永一七年(一四一〇)島津元久は将軍足利義持に拝謁するため上洛する際、山東さんとうにいる子息久豊を警戒し、留守を預かる北郷・新納・樺山氏ら国人に元久自身が下向するまで協力して国を守ることを誓わせ、「船津日向油」に下った。父の警戒を察知した久豊はわざわざ「油之津」に赴き、元久と対面している。同三〇年・三一年、久豊は息子の忠国を日向に派遣して加江田かえだ(現宮崎市)の攻略を図ったが、その折、軍勢は当地に集結、神水をのみ、水陸両面から発向している(「山田聖栄自記」など)

永正一七年(一五二〇)日向に着いた幕府遣明使瑞佐は、五月下旬に当地を訪れ、「油浦梅浜」(梅ヶ浜)で一本の木に千の莟をつけるという中国から将来された名花を題にして漢詩をつくっている。うめはまには栄興寺(永興寺)五院の一つ慶雲院があり、同院の華岳玄養に漢詩を贈っている。瑞佐はさらに臨江りんこう(林光寺、空岩が開基となった)の現住現香書記に号を頼まれ、現香の性格が破竹のようであること、寺の周りが竹で囲われていることから、竹庵と名付け漢詩を贈っている(日下一木集)。天文一二年(一五四三)七月五日、志布志しぶし(現鹿児島県志布志町)の大湯寺の住持好意は島津豊後守忠広の使僧として当地を出帆し、同月一四日には豊後府内ふない(現大分市)に着き、大友義鑑に対面、伊東・島津和睦の取持ちをした。しかしこれは不調に終わり、九月二九日当地に帰津している(日向記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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