ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「治天の君」の意味・わかりやすい解説
治天の君
ちてんのきみ
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治天下の君とも。朝廷政務の実質的指導者の地位にある天皇家の人の称。院政が成立し,天皇の地位と朝廷の実質的指導者の地位が分離する政治形態が常態化すると,その指導者をとくに治天の君と称するようになった。院政のもとでは,原則として本院(ほんいん)が治天の君であり,天皇親政下では天皇本人が治天の君の地位にあった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…いま粟田山陵という。後嵯峨院は〈治天の君〉の選定を鎌倉幕府にゆだねて崩御したため,幕府は故院の真意を大宮院に問い,その結果亀山天皇が〈治天の君〉となった。これが持明院・大覚寺両統迭立の発端であるが,大宮院が故院より譲渡された亀山殿以下多数の所領も,多くは大覚寺統に伝えられた。…
…
【時代概観】
鎌倉時代の政治機構・社会体制の祖型は,平安後期,院政期にすでに形成されていた。政治機構の面を考えると,1086年(応徳3)以来院政が行われて天皇は形式的存在にすぎず,天皇の父祖である上皇が〈治天の君〉として政権を握っていた。院政期以来,武家の棟梁が登場し,国家機構に組織され,武士を率いて国家全体の軍事・警察を担当するようになった。…
…いま粟田山陵という。後嵯峨院は〈治天の君〉の選定を鎌倉幕府にゆだねて崩御したため,幕府は故院の真意を大宮院に問い,その結果亀山天皇が〈治天の君〉となった。これが持明院・大覚寺両統迭立の発端であるが,大宮院が故院より譲渡された亀山殿以下多数の所領も,多くは大覚寺統に伝えられた。…
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【時代概観】
鎌倉時代の政治機構・社会体制の祖型は,平安後期,院政期にすでに形成されていた。政治機構の面を考えると,1086年(応徳3)以来院政が行われて天皇は形式的存在にすぎず,天皇の父祖である上皇が〈治天の君〉として政権を握っていた。院政期以来,武家の棟梁が登場し,国家機構に組織され,武士を率いて国家全体の軍事・警察を担当するようになった。…
… 泰時の孫の時頼のころから,北条氏の家督である得宗と,その家臣である御内人(みうちびと)による得宗専制政治が始まった。得宗で執権である時頼は,46年(寛元4)陰謀を理由に前将軍九条頼経を京都に追い,当時京都で権勢を振るっていた頼経の父の前摂政道家を失脚させただけでなく,これを契機に朝廷の政務への干渉を強め,〈治天の君〉(政治の実権を握る上皇,ときには天皇)や天皇を選定する権限までも掌握した。74年(文永11),81年(弘安4)の両度のモンゴル襲来にあたり,幕府は戦いの全般を指導し,朝廷が伝統的に保持してきた外交権をも奪って,独断で強硬な外交政策を打ち出し,また前例を破って,本所領から兵糧米を徴発したり,非御家人までも動員したりした。…
※「治天の君」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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