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治天の君 ちてんのきみ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

治天の君
ちてんのきみ

院政において実権を握って政治に当たった上皇 (院,太上天皇) を指す。「治天 (ちてんまたはじてん) 」は「治天下」の略で,治世または政務ともいい,政務を執る上皇を意味し,治天の君は,天皇や複数の上皇の中の最重要ポストであった。院政は,1086 (応徳3) 年に退位した白河上皇に始まり,近世まで断続するが,政体としては南北朝末期 (1393年) で終わる。『中右記』 1108 (天仁1) 年 10月 28日の条に,白河上皇について「今思太上天皇威儀已同人主,就中我上皇已専政主也」と記されているが,鎌倉時代の知天の君は,専制君主ではなく,公家 (執政) ・寺社 (護持) ・武家 (守護) が協調して人民支配に臨む権門体制の上に君臨して (黒田俊雄の定義) ,権門相互の間の総合調整的な機能を果たしていたとみなされる。治天の君の命令を奉じて出す文書が「院宣」である。

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百科事典マイペディアの解説

治天の君【ちてんのきみ】

院政を執り行う上皇を指す。天下を治める君の意で,天皇の父あるいは祖父の上皇(院)が政治の実権を握り,自らの意志で国政を執り行ったことからの称。
→関連項目安堵状後嵯峨天皇

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世界大百科事典内の治天の君の言及

【大宮院】より

…いま粟田山陵という。後嵯峨院は〈治天の君〉の選定を鎌倉幕府にゆだねて崩御したため,幕府は故院の真意を大宮院に問い,その結果亀山天皇が〈治天の君〉となった。これが持明院・大覚寺両統迭立の発端であるが,大宮院が故院より譲渡された亀山殿以下多数の所領も,多くは大覚寺統に伝えられた。…

【鎌倉時代】より


【時代概観】
 鎌倉時代の政治機構・社会体制の祖型は,平安後期,院政期にすでに形成されていた。政治機構の面を考えると,1086年(応徳3)以来院政が行われて天皇は形式的存在にすぎず,天皇の父祖である上皇が〈治天の君〉として政権を握っていた。院政期以来,武家の棟梁が登場し,国家機構に組織され,武士を率いて国家全体の軍事・警察を担当するようになった。…

【大宮院】より

…いま粟田山陵という。後嵯峨院は〈治天の君〉の選定を鎌倉幕府にゆだねて崩御したため,幕府は故院の真意を大宮院に問い,その結果亀山天皇が〈治天の君〉となった。これが持明院・大覚寺両統迭立の発端であるが,大宮院が故院より譲渡された亀山殿以下多数の所領も,多くは大覚寺統に伝えられた。…

【鎌倉時代】より


【時代概観】
 鎌倉時代の政治機構・社会体制の祖型は,平安後期,院政期にすでに形成されていた。政治機構の面を考えると,1086年(応徳3)以来院政が行われて天皇は形式的存在にすぎず,天皇の父祖である上皇が〈治天の君〉として政権を握っていた。院政期以来,武家の棟梁が登場し,国家機構に組織され,武士を率いて国家全体の軍事・警察を担当するようになった。…

【鎌倉幕府】より

… 泰時の孫の時頼のころから,北条氏の家督である得宗と,その家臣である御内人(みうちびと)による得宗専制政治が始まった。得宗で執権である時頼は,46年(寛元4)陰謀を理由に前将軍九条頼経を京都に追い,当時京都で権勢を振るっていた頼経の父の前摂政道家を失脚させただけでなく,これを契機に朝廷の政務への干渉を強め,〈治天の君〉(政治の実権を握る上皇,ときには天皇)や天皇を選定する権限までも掌握した。74年(文永11),81年(弘安4)の両度のモンゴル襲来にあたり,幕府は戦いの全般を指導し,朝廷が伝統的に保持してきた外交権をも奪って,独断で強硬な外交政策を打ち出し,また前例を破って,本所領から兵糧米を徴発したり,非御家人までも動員したりした。…

※「治天の君」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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