沼垂町(読み)ぬつたりまち

日本歴史地名大系 「沼垂町」の解説

沼垂町
ぬつたりまち

[現在地名]新潟市沼垂東ぬつたりひがし一―六丁目・沼垂西ぬつたりにし一―三丁目・蒲原かんばら町・鏡が岡かがみがおか竜が島りゆうがしま一―二丁目・王瀬新おうせしん町・鴎島かもめじま町・上王瀬かみおうせ町・松島まつしま一―三丁目・東新とうしん町・末広すえひろ町・長者ちようじや町・大山おおやま一―二丁目・古湊ふるみなと町・古川ふるかわ町・北葉きたば町・臨港りんこう一丁目・臨海りんかい町・臨港町・東臨港ひがしりんこう町・桃山ももやま町・秋葉通あきばどおり秋葉あきば一丁目・たから町・月見つきみ町・にしき町・万代島ばんだいじま

信濃川河口近くの右岸に位置するが、近世中期までは阿賀野川が合流して河口が一つになっていたため、地形変化が著しく、度々の移転を余儀なくされた。地名は古代の渟足柵ぬたりのき沼垂ぬたり郡沼垂郷などに連なるが、それらの所在については史料を欠く。「乗足のつたり」ともよばれており、「義経記」の義経北国落ちを記したくだりに、「九十九里の浜にかゝりて、乗足、蒲原、八十里の浜」とみえる。

〔中世〕

南北朝時代、阿賀野川以北の北朝勢と以南の南朝勢の合戦場となった。建武二年(一三三五)一二月、南朝方の構えた蒲原津かんばらのつ城が攻められた際、松崎まつさきで合戦があったが、翌三年一二月三日付の色部高長軍忠状案(色部氏文書)に「沼垂馳下、抽軍忠」と記されている。永徳二年(一三八二)の僧都覚有一跡配分目録(米良文書)には「ヌツタリノミナトノ旦那」とあり、当時湊であり、熊野信仰の一つの拠点にもなりうる地であったことがうかがわれる。下って永正一五年(一五一八)京に旅した伊達氏の使僧頤神軒存の記した、一一月三日付の算用状(伊達文書)に「二百文 のつたりのわたしもり」とみえる。また、天文二〇年(一五五一)越後守護上杉謙信が家臣大串某を「三ケ津」の横目代官に任じたとされ(藤巻文書)、この頃までに蒲原津・沼垂津・新潟津が「三ケ津」と総称されていたと考えられる。

謙信没後に起こった御館の乱は上杉景勝の勝利に帰したが、この一帯は景勝から離反した新発田重家の占拠するところとなり、重家は新潟城・沼垂城を築いて抵抗したが、天正一四年(一五八六)両城とも陥落した。この間、景勝は新発田駿河守(俊喜か)に沼垂・蒲原を宛行い、重家討伐後の跡目を約し(同一〇年五月二四日「上杉景勝判物」蓼沼文書)、また本庄繁長に「のつたり」への出陣を促したり(年不詳五月二〇日「上杉景勝書状」本庄文書)している。沼垂落城には島垣宗兵衛・隼人佑(兄弟といわれる)の功績があり、景勝は同一四年一〇月一日、隼人佑宛に感状(島垣文書)を与えて「免船壱艘海河共諸役」と述べ、また両人宛に次のような定書(同文書)を与えて沼垂の支配をゆだねた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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