日本歴史地名大系 「沼垂町」の解説
沼垂町
ぬつたりまち
信濃川河口近くの右岸に位置するが、近世中期までは阿賀野川が合流して河口が一つになっていたため、地形変化が著しく、度々の移転を余儀なくされた。地名は古代の
〔中世〕
南北朝時代、阿賀野川以北の北朝勢と以南の南朝勢の合戦場となった。建武二年(一三三五)一二月、南朝方の構えた
謙信没後に起こった御館の乱は上杉景勝の勝利に帰したが、この一帯は景勝から離反した新発田重家の占拠するところとなり、重家は新潟城・沼垂城を築いて抵抗したが、天正一四年(一五八六)両城とも陥落した。この間、景勝は新発田駿河守(俊喜か)に沼垂・蒲原を宛行い、重家討伐後の跡目を約し(同一〇年五月二四日「上杉景勝判物」蓼沼文書)、また本庄繁長に「のつたり」への出陣を促したり(年不詳五月二〇日「上杉景勝書状」本庄文書)している。沼垂落城には島垣宗兵衛・隼人佑(兄弟といわれる)の功績があり、景勝は同一四年一〇月一日、隼人佑宛に感状(島垣文書)を与えて「免船壱艘海河共諸役」と述べ、また両人宛に次のような定書(同文書)を与えて沼垂の支配をゆだねた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報