法華山寺跡(読み)ほつけさんじあと

日本歴史地名大系 「法華山寺跡」の解説

法華山寺跡
ほつけさんじあと

[現在地名]西京区御陵峰ヶ堂

かつら川西方丘陵上の標高一八三メートルの三角点付近、東方に京都盆地を一望する景勝の地にあった寺。唐櫃からと越が桂からおいノ坂へさしかかる山間の入口にあたり、中世は丹波への交通の要地であった。西山法華山寺、俗に峯の堂ともいう。天台宗寺門派。羅漢像を本尊とした。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔開山慶政〕

開山は三井寺(園城寺、現滋賀県大津市)の学僧証月房慶政。幼少より三井寺の能舜、延朗(現西京区にあった最福寺開山)らに師事、のち栂尾とがのお(現京都市右京区)明恵の門徒となる。建保五年(一二一七)南宋に渡り、帰朝して峯の堂を開いたと伝え、その時期は建保七年から貞応元年(一二二二)に至る間と推定される。「沙石集」は、慶政が如説修行のうちに臨終を迎えようと一人松尾の奥に草庵を結び修行していたところ、杣人や里人の喜捨を受け「次第ニ寺トナリテ」、如法勤行のうちに臨終を迎えたという伝説を載せる。慶政は法華山寺に延朗の墓所を立て、「続拾遺往生伝」などの諸往生伝を書写し、「四分律刪繁補闕行事鈔」上巻を刊行するなどの活動をしている(慶政上人伝考)。慶政はまた関白九条道家・同近衛兼経・近衛家良・同経家・関白一条実経らと交わり、阿仏尼とも交友、歌人としても「続古今集」以下の撰集に入れられ、「慶政上人伝考」は「閑居友」の作者にも比定する。没年は文永五年(一二六八)

〔寺領寄進〕

応永一七年(一四一〇)四月一三日の法華山寺領文書預状(九条家文書)などによれば、仁治元年(一二四〇)八月三日に九条道家が山城東九条ひがしくじよう荘内の散在田地を、正嘉二年(一二五八)三月二日に九条忠家が左馬寮西八条にしはちじよう散在田地を寄進、また文永三年(一二六六)二月一八日に慶政自身が別に地蔵野(もと玄蕃野と号する、現在地未詳)を相伝していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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