改訂新版 世界大百科事典 「法隆寺再建非再建論争」の意味・わかりやすい解説
法隆寺再建非再建論争 (ほうりゅうじさいこんひさいこんろんそう)
法隆寺西院伽藍の金堂,塔,中門,回廊が7世紀初めの推古朝創建の建造物であるか,あるいは一度焼亡して再建されたものであるのかについての論争。同伽藍が日本最古の建造物であることから,建築史,美術史,日本史,考古学の諸家によって19世紀末から半世紀にわたって論争された。すでに早く1899年黒川真頼(まより)(1829-1906)と小杉榲邨(すぎむら)(1834-1910)が《日本書紀》天智9年(670)4月条の法隆寺全焼の記事によって,創建法隆寺は同年に焼亡し,現在の西院伽藍は和銅年間(708-715)に再建したものという説を唱えたが,1905年関野貞(ただし)(1867-1935)と平子鐸嶺(たくれい)(1877-1911)が非再建説,喜田貞吉(1871-1939)が再建説をそれぞれ主張して第1次論争が行われた。非再建説は飛鳥,白鳳,天平と変遷する建築様式論に基礎をおくが,特に西院伽藍建造の使用尺度が大化以前の高麗(こま)尺であるという関野の尺度論が重要な論拠となった。喜田は《日本書紀》の記事の信拠性とともに,白鳳・天平様式とされる建造物の年代が下ることを主張した。その後南大門の東にある若草伽藍の塔心礎が注目されるようになり,喜田も関野も天智9年焼亡の寺は若草(わかくさ)伽藍と考えるようになったが,喜田が若草伽藍の焼亡,西院伽藍の再建と考えたのに対して,関野は両伽藍が推古朝から併存したと考えた。39年足立康(1898-1941)が関野と同様の二寺併存による非再建説を唱え,第2次論争がおこるが,同年12月石田茂作(1894-1977)による若草伽藍の発掘と45年以来の金堂と塔の解体修理によって明らかになった新事実によって,論争は決着をみた。すなわち,(1)若草伽藍と西院伽藍の中心線の方向が16°違うので,両者は併存しない。(2)出土軒瓦は若草伽藍が西院伽藍より古い。(3)金堂の礎石,壁の下地材は転用材である。(4)金堂天井発見の落書は推古朝までさかのぼらないなどの諸点から,天智9年に若草伽藍が焼亡し,西院伽藍はそれ以降に再建されたものと考えられるに至った。
→法隆寺
執筆者:今泉 隆雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報