津打治兵衛(読み)つうちじへえ

改訂新版 世界大百科事典 「津打治兵衛」の意味・わかりやすい解説

津打治(次)兵衛 (つうちじへえ)

歌舞伎作者。《口三味線返答役者舌鞁》などに〈津打〉を〈つうつ〉とよむ。(1)初世 生没年不詳。はじめ親仁方歌舞伎役者であったが,元禄(1688-1704)初年には大坂で作者として認められており,《日本阿闍世太子》(1694年岩井座)などの狂言本も残る。1700年(元禄13)江戸市村座へ下り,01年に《持統天皇都移》《傾城乳母桜》で当りをとった。役者の得意芸をたくみに採り入れて作劇するが,他の狂言からの趣向どりが非常に多いのが特色である。元禄末年に没したらしい。(2)2世(1683-1760・天和3-宝暦10) 初世の子。俳名英子。父とともに江戸へ下り,元禄末年に治兵衛をついだという。1710年(宝永7)江戸中村座《一心二河白道》で大当りをとり,宝暦年中(1751-64)まで作者として活躍した。時代と世話を綯交(ないま)ぜにした趣向本位の作劇法で,江戸の狂言作法に大きな影響を与えた。代表作は《頼政五葉松》(1707年江戸山村座),《式例和(やわらぎ)曾我》(1716年中村座)などがある。(3)3世(?-1789(寛政1)) 別号一何斎,太鼓堂泥築,鈍通舎。甲府に生まれる。江戸に出て2世の弟子となり,1756年(宝暦6)津打伝十郎の名で初出勤。師の没後62年に3世を継いだ。65年(明和2)鈍通与三兵衛(どんつうよそべえ)と改めて,4世市川団十郎一座の作者を勤め,69年劇界を退いた。また亀戸の良按和尚に禅学を学び,教訓書《心の鬼》《鈍通禅学咄》を著した。甲府で没す。(4)4世 生没年不詳。一時,2世鈍通与三兵衛を名のった。江戸河原崎座立作者として《魁源氏騎士(さきがけげんじのきばむしや)》(1828)などを作り,のち江戸森田座で4世鶴屋南北,3世並木五瓶らと合作した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「津打治兵衛」の意味・わかりやすい解説

津打治兵衛
つうちじへえ

歌舞伎(かぶき)作者。大坂の岩井半四郎座の俳優で作者も兼ねた津山治兵衛が、晩年に津打の治兵衛と称したのに始まる。

[古井戸秀夫]

初世

生没年不詳。1700年(元禄13)に江戸に下り、『持統天皇都移(じとうてんのうみやこわたまし)』など上方(かみがた)仕込みの狂言で当りをとった。

[古井戸秀夫]

2世

(1683―1760)初世の子。父とともに江戸に下り、1705年(宝永2)ごろ2世を継いだ。1710年の『一心二河白道(いっしんにがびゃくどう)』で名作者としての地位を確立、宝暦(ほうれき)(1751~64)中ごろまで江戸で君臨。時代物のなかに世話の筋を組み込む「綯交(ないま)ぜ」を定着させ、江戸歌舞伎作者中興の祖と称された。『式例和曽我(しきれいやわらぎそが)』など当り作は多いが作品は伝わらず、絵入り狂言本によって粗筋が知られるのみである。

[古井戸秀夫]

3世

(?―1789)2世の門弟津打伝十郎が1762年(宝暦12)に継ぎ、常磐津(ときわず)『帯曳小蝶昏(おびひきこちょうのゆうぐれ)』などを残す。のち禅学を修業し鈍通与三兵衛(どんつうよそうべえ)と改める。甲府に隠居し、『心の鬼』『鈍通禅学咄(ぜんがくばなし)』などを残した。

[古井戸秀夫]

4世

生没年不詳。文政(ぶんせい)・天保(てんぽう)(1818~44)ごろの江戸作者。

[古井戸秀夫]

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朝日日本歴史人物事典 「津打治兵衛」の解説

津打治兵衛(2代)

没年:宝暦10.1.20(1760.3.7)
生年:延宝7(1679)
江戸中期の歌舞伎狂言作者,歌舞伎役者。俳名英子。別号鈍通,泥築,太鼓堂。初代津打治兵衛の子とされる。津打三千良,のち津打治三郎と名乗って役者をしていたが,作者に転じて2代目治兵衛となる。代表作は「一心二河白道」「式例和曾我」など。宝暦5(1755)年剃髪して良仙と号し,禅を学ぶ。その後も狂言を書き続け,江戸三座に勤めて生涯を通じて100以上の作品にかかわり,江戸作者中興の開山と呼ばれた。時代物,世話物のない交ぜという江戸歌舞伎の作劇法を創始した人物である。津打治兵衛の名は4代目まで続き,3代目は鈍通与三兵衛の前名,4代目は幕末の作者。<参考文献>『作者名目』(『日本庶民文化史料集成』6巻)

(加藤敦子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「津打治兵衛」の解説

津打治兵衛(2代) つうち-じへえ

1679-1760 江戸時代中期の歌舞伎作者。
延宝7年生まれ。初代津打治兵衛の子。元禄(げんろく)13年父とともに江戸にいき,江戸狂言完成につとめた。江戸作者中興の祖といわれる。宝暦10年1月20日死去。82歳。大坂出身。別号に太鼓堂,泥築(どろつく),鈍通。俳名は英子(えいし)。作品に「一心二河白道」「式例和曾我(しきれいやわらぎそが)」「大角力藤戸源氏」など。
【格言など】玉の緒のありたけ嘘を書きつくし今ぞ冥土の道つくりなり(辞世)

津打治兵衛(3代) つうち-じへえ

?-1771 江戸時代中期の歌舞伎作者。
2代の門人。宝暦12年江戸市村座で3代を襲名,立作者となる。浄瑠璃(じょうるり)の趣向に長じ,長唄などの作詞にもすぐれた。明和6年引退。明和8年4月19日死去。甲斐(かい)(山梨県)出身。初名は津打伝十郎。後名は鈍通与三(惣)兵衛。別号に一河斎。作品に「封文栄曾我(ふうじふみさかえそが)」「帯曳小蝶昏(おびひきこちょうのゆうぐれ)」など。

津打治兵衛(初代) つうち-じへえ

?-? 江戸時代前期の歌舞伎役者,歌舞伎作者。
はじめ津山次兵衛の名で役者をつとめ,のち大坂岩井半四郎座の作者となる。元禄(げんろく)13年江戸市村座にうつり「持統天皇都移(みやこわたまし)」「傾城(けいせい)乳母桜」などで評判をえた。正徳(しょうとく)5年(1715)以前に死去。作品はほかに「日本阿闍世(あじゃせ)太子」など。

津打治兵衛(4代) つうち-じへえ

?-? 江戸時代後期の歌舞伎作者。
3代の門人。文政11年(1828)江戸の河原崎座で4代を襲名,立作者となる。一時2代鈍通与三兵衛とあらため,のち津打治兵衛の名にもどした。前名は津打隈蔵。作品に「江南魁曾我(みんなみにさきがけそが)」「敵討東八景」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「津打治兵衛」の意味・わかりやすい解説

津打治兵衛(2世)
つうちじへえ[にせい]

[生]天和3(1683)
[没]宝暦10(1760).1.20. 江戸
江戸時代中期の歌舞伎作者。姓は「つうつ」とも伝えられる。別号太鼓堂,泥築 (どろつく) ,鈍通。俳名英子。元禄 16~17 (1703~04) 年頃襲名。宝永7 (1710) 年『一心二河白道』が出世作。古人では近松門左衛門,近代では津打治兵衛とまでいわれた江戸作者中興の祖。 200余の作を残し,時代物,世話物綯交 (ないま) ぜの作劇法を創始した。

津打治兵衛(1世)
つうちじへえ[いっせい]

江戸時代中期の歌舞伎作者。姓は「つうつ」とも伝えられる。大坂岩井半四郎座に属した親仁方 (おやじかた) の役者であった。最初津山治兵衛を名のったが,元禄初 (1688) 年津打と改名,作者専業となり,元禄 13 (1700) 年江戸の中村座に下り,『けいせい乳母桜』で好評を得た。

津打治兵衛(3世)
つうちじへえ[さんせい]

[生]?
[没]明和8(1771)
江戸時代中期の歌舞伎作者。姓は「つうつ」とも伝えられる。2世津打治兵衛の門弟,津打伝十郎が襲名,のち鈍通与三兵衛 (どんつうよそべえ) と改めた。宝暦期の立作者。

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世界大百科事典(旧版)内の津打治兵衛の言及

【三つ面子守】より

…1829年(文政12)9月,江戸河原崎座初演。作詞津打治兵衛,作曲名見崎徳治。振付4世西川扇蔵。…

※「津打治兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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