洲崎村(読み)すさきむら

日本歴史地名大系 「洲崎村」の解説

洲崎村
すさきむら

[現在地名]金沢区洲崎町・平潟ひらかた

北は六浦寺前むつらてらのまえ村・町屋まちや村、東は金沢原かねさわはらを経て乙舳おつともの海に続く。南は野島のじま浦、西は金江入江を隔てて六浦の社家分しやけぶん村・平分ひらぶん村に対し、瀬戸せと橋によって社家分村に通じていた。地形はもとみや川の流れが土砂を堆積してできた平坦な砂地で、集落は北方から野島山に向かって発達した砂洲上にある。町屋村からは瀬戸橋を通る鎌倉道と浦賀うらが道が通る。浦賀道は野島浦で横須賀村(現横須賀市)まで海路となる。

明徳元年(一三九〇)七月一三日の称名寺領塩垂場年貢銭結解状(県史三)に「惣都合三十六貫二百八十一文町屋九度分 洲崎四度分」とみえ、製塩が行われていた地であることが知られる。

洲崎村
すのさきむら

[現在地名]館山市洲崎

川名かわな村の北西に位置し、海に臨む。慶長二年(一五九七)安房国検地高目録では高一三〇石(うち田六〇石余)。同一五年の里見家分限帳によると里見氏隠居領。寛永二年(一六二五)一〇月の知行宛行状で洲崎村九八石余が旗本小浜弥十郎に与えられたが、同年一二月の知行宛行状では山下やまもと郡の「須野崎村」九一石余は旗本石川正次に与えられている。正保郷帳では田高四六石余・畑高四四石余で、石川領、ほか地内大明神(洲崎神社)領五石・観音寺領二石。これら寺社領を除いては享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)、元文村高帳では幕府領

洲崎村
すさきむら

[現在地名]久住町仏原ほとけのはる 須崎すさき

仏原村の東、県道庄内しようない―久住線沿いに位置する。正保郷帳に村名がみえ、朽網くたみ郷に属し、田高六〇石余・畑高二三石余、水損所とある。旧高旧領取調帳では高一五八石余。岡藩領時代には仏原組に属し、当村には小庄屋が置かれた(安永七年大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。享保九年(一七二四)の耶蘇宗門并類族改帳(武藤家文書)によれば類族女性一人。岡藩の豪農百撰中、六三位に台助、七七位に喜右衛門がみえる(「農家百人撰」北村文庫)。明治八年(一八七五)いち小竹こたけ石田いしだの三ヵ村とともに仏原村に合併。

洲崎村
すさきむら

[現在地名]幡豆町東幡豆ひがしはず

現幡豆町の東端、蒲郡市と接する。面積は広いがほとんどは山地で、利用価値は低かった。一帯は、じや山・こし山・洲崎山とよばれる標高一〇〇メートル内外の山地。「三河志」には「須崎村 今洲崎 二葉松曰磯」とある。嘉永六年(一八五三)の丑郷帳(牧野健吉氏蔵)の納合高をみると、米がほぼ一〇〇石、塩三二石七斗七升二合と塩の産地だったことがわかる。この量は、幡豆陣屋支配の浜役としての塩のほぼ半分にあたり、塩田の中心だったことを物語る。

洲崎山には第一号から第五号まで、越山には第一号から第四号までの古墳が確認されている。いずれも円墳である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報