活動写真弁士の略称。映画の旧名称である活動写真の説明者をいう。サイレント映画時代、スクリーンの傍らで映画の解説、登場人物の台詞(せりふ)、情景の説明などを行うのを職業とした芸人。日本における映画の初公開は1896年(明治29)であるが、公開の手配はすべて興行師が行ったため、客引きの口上言(こうじょういい)がついた。これが活弁の元祖である。初期には上映前に映画の原理や作品の解説などをする前説(まえせつ)と、上映中にしゃべる中説(なかせつ)とがあったが、1920年代に入って前説は廃止になり、また活弁という名称にかわって、映画説明者あるいは映画解説者といわれるようにもなった。活弁は、スクリーンに映っている俳優自身がスクリーンの後ろで台詞をいう形式から、やがて弁士がその俳優の声色(こわいろ)を使う声色屋の時代、サイレント末期になると弁士自身の個性ある話芸を聞かせる時代へと推移した。活弁の話芸が売り物であり、写真は添え物で、ファンは活動(写真)を見に行こうといわず、だれだれ(弁士の名前)を聞きに行こうといった。活弁がこのような主導権をもったのは日本の映画興行の特性で、外国では字幕と音楽伴奏だけの上映が普通であった。当時の日本の観客の大部分は外国映画の欧文字幕が読めないということもあり、また浄瑠璃(じょうるり)をはじめとする語物の伝統も根強く、活弁は不可欠、当然のこととして定着した。観客が自己の鑑賞力に自信をもたず、感動の度合いまでも説明者の指示に従いたがったという側面もあった。当時の有名な説明者に、駒田(こまだ)好洋、染井三郎、岩藤(いわとう)思雪、土屋松濤(しょうとう)、林天風、谷天朗、泉天嶺、徳川夢声、大蔵貢(みつぐ)、牧野周一、大辻司郎(おおつじしろう)などがいた。政府統計によると、1926年(昭和1)には日本全国の弁士は女性も含め7576人であったが、30年代になり、トーキーの普及とともにほとんどの弁士は廃業せざるをえなくなり、活弁の時代は終わった。
[吉田智恵男]
『吉田智恵男著『もう一つの映画史――活弁の時代』(1978・時事通信社)』
活動写真弁士の略で,日本特有の無声映画の説明者。ときには説明そのものをも指す。その元祖は,1897年に東京の神田錦輝館のバイタスコープ(これが〈活動写真〉と名づけられた)の公開のときに,〈前説(まえせつ)〉をするために現れた駒田好洋で,それまでは活動写真の内容を演説口調で説明する単なる口上であったものを,いわゆる弁士口調で〈活弁らしい活弁〉のパターンをつくった最初の人といわれる。初期の映画撮影所の風景を描いたルネ・クレール監督《沈黙は金》(1947)などによれば,サイレント映画の説明者は日本だけの特有の存在ではなかったことがわかるが,しかし日本の〈弁士〉のように,映画説明者がトーキー初期に至るまで〈映画価値を左右し,あるいは出演スターをしのぐほどのポスター・バリューをもち得た例はない〉(筈見恒夫)とされる。こうして,弁士のスターが生まれ,映画興行の重要な要素を占めるに至るが,弁士は楽隊(ジンタ)による伴奏音楽とともに美辞麗句で作品を飾り,その弁舌によって映画を大衆の中にもち込んだ反面,〈彼らの理解しえぬ高さをもつ作品まで低いレベルに引き下ろして説明したために,大衆の観賞眼向上を妨げた罪業〉もあるという筈見恒夫のような見解もある。トーキー時代に入っても,しばらくは音を低くして弁士がしゃべるというケースがあったものの,日本映画が全面的にトーキー化される1937-38年以後,急速に消えた。
執筆者:広岡 勉
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…岩崎昶の回想によれば,1907‐08年ころ〈映画館〉などということばはまだもちろんなく,〈映画は`活動写真’,日常語としては`カツドウ’,それを常打ちで映すところは`常設館’,俗称`カツドウ小屋’だった〉という。活動写真は〈カツドウ〉の略語で親しまれ,映画説明者は活動弁士(そこから活弁ということばも生まれる),活動狂はカツキチと呼ばれ,また《活動之世界》《活動写真界》《活動俱楽部》といった映画雑誌も生まれ,映画人は活動屋と呼ばれた。 《アマチュア俱楽部》(1920)のオリジナルストーリーや《蛇性の婬》(1921)のコンティニュイティを書くなど,〈映画〉に深い関心を示していた作家の谷崎潤一郎は,17年の《新小説》9月号に〈活動写真の現在と将来〉,そして21年の同誌3月号には〈映画雑感〉というエッセーを発表している。…
…島根県の生れ。東京府立一中を卒業後,無声映画時代に映画説明者(いわゆる活弁)となり,気のきいた説明で欧米映画の名説明者として知られていた。トーキー時代になって失業,しかし,漫談や放送(ラジオ)芸能に転向して,吉川英治の《宮本武蔵》の朗読などで,人気を得た。…
…【成沢 玲子】
[プログラムが持つ意味]
かつての無声映画全盛時代,活動弁士として活躍した徳川夢声は,映画ではそれまでほとんど行われていなかったプログラムの作成・頒布というアイデアによって,大いにその声価を高めたといわれている。1917年(大正6),彼は東京・赤坂の葵館において,活弁の通例であった開映前の解説(=前説(まえせつ))を廃し,その代りに4ページ立ての解説プログラムを作成した。前説の多くは類型化し陳腐化していたから,この新しい試みは一種の〈知的な趣向〉として受け入れられ,また美文調ではない独特の語り口ともあいまって,夢声は大いにインテリ層の支持を集めることとなった。…
※「活弁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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