新撰 芸能人物事典 明治~平成 「大辻司郎」の解説
大辻 司郎
オオツジ シロウ
- 職業
- 漫談家 活動写真弁士
- 本名
- 大辻 四郎
- 生年月日
- 明治29年 8月5日
- 出生地
- 東京市 日本橋区(東京都中央区)
- 学歴
- 甲洋学舎卒
- 経歴
- 花川戸助六や国定忠治、尾上松之助らを崇拝して侠客を志し、余りの悪童ぶりのために小学校を2年で放校されたといわれる。滋賀県の母方の祖父に預けられるが、間もなく東京へ戻り、兜町の株屋の店員となった。この間、3代目柳家小さんのもとで落語を習ったが、活動写真の弁士を目指すようになり、染井三郎や柳思外に師事。大正5年浅草の帝国館で初舞台を踏み、短編喜劇映画を一挙に上映したニコニコ大会などで解説を務めて徐々に人気を集め、独特の奇声と“胸に一物、手に荷物”“落つる涙を小脇に抱え”“勝手知ったる他人の家”などの珍妙でナンセンスな台詞で観客を愉しませた。10年松竹直営の映画館・金春座を経て、同年徳川夢声とともに神田の東洋キネマに移籍。当時の映画館で頻発した停電のときにはその場しのぎのしゃべりだけで観客を十分に沸かせ、夢声から天才と称えられた。関東大震災後、“語る漫画”の意の“漫談”という語を創始してそちらに転向し、“宗家”を自称。15年には徳川夢声、古川ロッパらのナヤマシ会に参加して漫談や寸劇、声帯模写、怪しげな踊りなどを披露し、「ジャズは悲し」「撮影所悲話」など現代風俗物を得意とした。また吉屋信子や藤田嗣治にならってオカッパ頭となり、それが看板にもなった。昭和8年ナヤマシ会メンバーとともに笑いの王国を結成してからは喜劇俳優としても活動し、12年には浅草・常盤座で「金色夜叉」を自作自演。傍ら山本嘉次郎監督のアマチュア時代の作品「ある日の熊さん」、木村荘十二監督「ほろよい人生」「只野凡児 人生勉強」、志波西果監督「半ぺいさんはお人好し」などといった映画にも出演した。戦後は東宝ナヤマシ会、笑の王国生駒雷遊一座などの舞台や岩沢庸徳監督「シミキンの忍術凸凹道中」、佐々木康監督「踊る竜宮城」といった映画に出る一方、自らの奇声に保険をかけて話題となった。27年日航機もく星号の墜落事故で遭難死。長男の寿雄も俳優となり、大辻伺郎を名乗った。
- 没年月日
- 昭和27年 4月9日 (1952年)
- 家族
- 二男=大辻 伺郎(俳優)
- 伝記
- 銀座フルーツパーラーのお客さん―そのサインと生涯お嬢…ゴメン。〈パート2〉 俺のどうにか人生 美空ひばり秘話 大島 幸助 著嘉山 登一郎 著(発行元 文園社近代映画社 ’02’91発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報