日本歴史地名大系 「浜田城跡」の解説
浜田城跡
はまだじようあと
浜田市中央部、浜田川右岸に臨む
〔築城の経過〕
寛政一〇年(一七九八)の浜田古事書抜(浜田市立図書館蔵)、浜田鑑(藤井家蔵)によると、毛利氏が石見を支配していた頃、吉川元春や吉川元氏らが浜田に在番し、当地に陣屋を構えたと伝える。元和五年(一六一九)七月伊勢国にいた古田大膳大夫重治が石見国内に五万石余、丹波国内に五千石余を与えられ(「寛政重修諸家譜」など)、浜田に封じられた。重治の入部に先立ち、古田将監・勝長兵衛らが領内の益田、
城山(亀山)と麓の堀内を城内とし、浜田川と東方の丘に囲まれる区域を郭内として武家屋敷を置き、町家は浜田川対岸とした。本丸の周囲一八五間余、石垣の高さ東四間・西二間二尺、総坪数八二一坪余で、西隅に高さ四丈六尺一寸、上の重五間四方、中の重七間四方、下の重東西九間・南北七間の三重櫓があり、天守とも称された。
浜田城跡
はまだじようあと
浜田城跡
はまだじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報