浜田城跡(読み)はまだじようあと

日本歴史地名大系 「浜田城跡」の解説

浜田城跡
はまだじようあと

[現在地名]浜田市殿町

浜田市中央部、浜田川右岸に臨むかめ(六七・三メートル)の山頂を中心に、二つの台地、一つの支脈からなる独立丘上に築かれた平山城。県指定史跡。北は松原まつばら湾に面し、南と西を浜田川が取巻くように流れ、東は狭い平坦地を挟みかがみ(七三・八メートル)に対する。丘陵部を除いて市街地化し、南東に派生する丘を横断して国道九号が通る。一帯は城山じようざん公園として整備され、市民の憩の場となっている。

〔築城の経過〕

寛政一〇年(一七九八)の浜田古事書抜(浜田市立図書館蔵)、浜田鑑(藤井家蔵)によると、毛利氏が石見を支配していた頃、吉川元春や吉川元氏らが浜田に在番し、当地に陣屋を構えたと伝える。元和五年(一六一九)七月伊勢国にいた古田大膳大夫重治が石見国内に五万石余、丹波国内に五千石余を与えられ(「寛政重修諸家譜」など)、浜田に封じられた。重治の入部に先立ち、古田将監・勝長兵衛らが領内の益田、三隅みすみ(現三隅町)周布すふなどの旧城地を検分した結果、「浜田庄は狭けれども大川の流れあり、左右に湊有りて万端自由よろし」として城地に定め(浜田古事書抜)かも山を亀山と改称し、山中や麓にあった寺院を替地を与えて移したと伝える。同年六月、安芸広島城主福島正則が改易されたとき、隣国諸大名に対して出兵の命があったため、築城はしばらく延期されたという。石州浜田御城覚書写(浜田市立図書館蔵)によれば、石見国は異国に近く、また中国地方と西国との交通や物資流通上重要であるとして、城普請手伝が雲伯因三国に命じられたという。滝山一学・古市久馬が防ぎ方・攻め方となり、北条家浪人松田武太夫が助言者となって縄張りを担当し、計算方は今村一正が受持ったとされる。元和六年二月から地割普請を始め、亀山山頂を削って本丸とし、中腹台地に二の丸、山麓に三の丸を置いた。石垣用の石材は城山の麓から切出した。工事人夫は地元民だけではなく、工匠・石工などは安芸・周防・長門からも招いたという。同年一一月には地普請を完了し、続いて城内外の作事・小細工、さらに城下の町割に着手、同八年一〇月には郭内内片庭うちかたにわに並木の松を植えるなどして、同九年五月にはひととおり城および城下町の工事を完了したとされる(「浜田町史」など)

城山(亀山)と麓の堀内を城内とし、浜田川と東方の丘に囲まれる区域を郭内として武家屋敷を置き、町家は浜田川対岸とした。本丸の周囲一八五間余、石垣の高さ東四間・西二間二尺、総坪数八二一坪余で、西隅に高さ四丈六尺一寸、上の重五間四方、中の重七間四方、下の重東西九間・南北七間の三重櫓があり、天守とも称された。


浜田城跡
はまだじようあと

[現在地名]四日市市鵜の森一丁目

鵜の森うのもり公園内の鵜森うのもり神社境内の北・西・東に土塁が残る。「三国地志」は、田原美作守忠秀の築城後、四代ここに拠ったとする。田原氏は南西赤堀あかほり本拠として赤堀氏を称したが(→赤堀城跡、浜田城はその一族浜田氏の居城である。文明一三年(一四八一)一〇月二日の内宮一禰宜荒木田氏経の書状(神宮文庫蔵)に「赤堀浜田」と出る。


浜田城跡
はまだじようあと

[現在地名]唐津市八幡町

佐志さし村の北東部、佐志川右岸の唐房とうぼう湾に臨む低い丘陵にある。

「松浦記集成」は、天暦元年(九四七)に佐志将監(源勤)が築くという、と記すが定かでない。しかし中世の城であることは、わずかに残る塹塁および「松浦古事記」「松浦昔鑑」などの資料により確かめられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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