浜通村(読み)はまどおりむら

日本歴史地名大系 「浜通村」の解説

浜通村
はまどおりむら

[現在地名]八戸金浜かねはまさめ町・みなと町、小中野こなかの七―八丁目の一部など

八戸城下の東、新井田にいだ川の河口両岸から東南の太平洋沿岸一帯にかけての海岸部に位置する。西は小中野村、南は新井田村・大久保おおくぼ村などに接する。北部に湊村・鮫村、南部に金浜村などがあり、浜通村はこれらの村々の総称と考えられる。

藩政当初は盛岡藩領に属した。元和三年(一六一七)の南部利直下知状(南部家文書)に「金浜」「さめみなと」「ふたこし」「もろこし沢」「白浜」「小清水」「たね指」「大くき」(現鮫町)、「みなと」「竹かはな」(現湊町)などとあり、これらを含む二三浦が根城南部氏に給されている。また同年の南部利直印紙(三翁昔語)に「弐十一村、みなと、ほつし浜」とあり、法師浜ほうしはまは新田政広に給された。翌四年の知行目録には「六拾八石弐斗五升九合 浜通」「八拾六石六斗五升八合 種差」「二子石」「金浜」とある。正保四年(一六四七)の南部領内総絵図には浜通村として八九石余とあり、同年の郷村帳によれば八九・一七二石のすべてが畑であった。寛文四年(一六六四)八戸藩の創設とともに同藩領に編入。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳に浜通村として高四二五・七八六石、うち畑三九八・七三八石とあり、浜通三四九・六九三石、金浜七六・〇九三石とある。浜通には湊村・鮫村などが含まれ、本村は湊村とされていた。八戸廻に属する。

当村域には北西新井田川馬淵まべち川の河口を利用した湊と北東かぶ島付近を利用した鮫湊があり、両湊の中間には白金浜しろがねはまの湊があった。この三湊は一括して八戸湊・八戸浦と称されることが多い。造船材や鉄に恵まれていたため盛岡藩時代より造船が盛んであった。雑書の正保三年五月六日条に「八戸湊ニ新船弐百石三百石弐艘之ツヽ立」とみえ、同五年には船大工が八戸に下り、慶安三年(一六五〇)には江戸からきた船大工三人により五〇〇石積・三〇〇石積の船が建造された(同書同年一〇月三日条)。これらの藩船の建造を契機に地元の造船技術も急速に進歩したとみられ、正保三年より承応二年(一六五三)まで一四艘の船が造られている(同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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