海上村(読み)うみがみむら

日本歴史地名大系 「海上村」の解説

海上村
うみがみむら

[現在地名]温泉町海上

越坂おつさか村の南東にある。小又こまた川の最上流域を占め、集落は同川の右岸うしみね山の南西麓に発達。北は内山うちやま村。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「うミかミ」とあり、当地には「けんひやうへ殿」「うミかミ大ほか殿」が住していた。現浜坂はまさか相応峰そうおうみね寺の過去帳の永禄九年(一五六六)分には「海上ノ谷口与三兵衛 道心」の名が載る。


海上村
かいじようむら

[現在地名]荘川村海上

白川しらかわ街道沿いに中野なかの村の北、しよう川左岸に位置する。古くは北陸道の裏道が当地を通って白山を越え越前方面に通じたと伝える。親鸞の弟子嘉念坊善俊郡上ぐじよう白鳥しろとり(現白鳥町)民衆の教化に努めていたとき、下総権介千葉常胤の孫で海塩かいえん(当地にあたる)に帰農していた千葉成正が弟子になった。成正は浄正と号し、善俊は宝治年間(一二四七―四九)浄正の館で教化に努めたという。のち鳩谷はとがや(現白川村)に道場一宇を建て、善俊は真宗の教線拡大に努力し同地で没した(「願生寺由来記」「嘉念坊御命日記」など)。当地は善俊が飛騨で初めて留錫した地とされ、浄正の館は聖殿しようでん道場とよばれた。金森長近の高山城下町経営に際し照蓮しようれん寺が城下に移されたため、聖殿の願誓も岡本おかもと(現高山市)に移り海塩山願生がんしよう寺を建立した(高山別院史)


海上村
かいしようむら

[現在地名]二戸市野々上ののうえ 下海上しもかいしよう上海上かみかいしよう

金田一きんだいち村の西、海上川(根守川とも)流域に位置する。地名は南部氏の隠里甲斐庄とよんだことにちなむと伝える。元禄十郡郷帳では当村は野々上村へ入るとある。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)によれば蔵入高二石余・給所高七〇石余。「邦内郷村志」では蔵分七三石余のみで、馬六四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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