添川村(読み)そえがわむら

日本歴史地名大系 「添川村」の解説

添川村
そえがわむら

[現在地名]藤島町添川

西は鷺畑さぎはた村、東はひがし(出羽山地)。村名は西側をはらい(京田川)が流れていることによるとされる。添河とも記され、枝郷として東山を越えた立谷沢たちやざわ川沿いに科沢しなざわ(現立川町)がある。また鷺畑村東堀越ひがしほりこし村を古くに分村したとされる。狩川かりかわ(現立川町)から南下する羽黒山の裏参道(狩川街道)が通り、登山口にあたる。そのため往古から羽黒山との関係が深い。宝治年中(一二四七―四九)執権北条時頼が羽黒山衆徒の取締のため派遣した梅津中将が同山の長吏職を兼ねて添川城にあったといわれ、その子孫も代々在城したが、天正一五年(一五八七)最上義光に降伏し(年未詳一〇月三日「来次氏秀書状写」経眼古文書所収文書)、翌年上杉勢の庄内侵攻に際し最上に立退いた(年未詳八月二五日「最上義光書状」戸川安章氏所蔵文書など)。その後、慶長二年(一五九七)より上杉家臣栗田刑部が在城したとされる。同五年反上杉氏の庄内惣一揆において、朝日山あさひやま(現酒田市)城主池田盛周は添川城に立籠ったが、直江兼続の命を受けた下次右衛門によって残らず撫切りにされ、四散したという(年未詳七月二六日「直江兼続感状写」鶏肋編所収文書、「山形県史」など)関ヶ原の戦後、最上氏時代にはつるおか城在番の足軽大将一栗兵部(知行一千石)が在城したが、慶長一九年に鶴ヶ岡城でかめさき(現酒田市)城主志村光清らを殺傷するという事件を起こし、一族は処断された。一説に、兵部は当村に逃げ退いたが、討手により村内の我老田で討たれたともいう(大泉紀年)。その後、梅津中将の子孫という柴重右衛門が在城したともいわれる。元和元年(一六一五)廃城となったとみられる(藤島町史)

羽黒山坊で鎌倉・室町頃に隆盛を極めた賀我がが寺の跡があり、中世には多数の羽黒派修験が在村した。天正一四年八月一八日の上旬長吏永春充行状写(雑纂諸家文書所収文書)によれば、新地沢田さわだ四五〇刈などが竹之坊に与えられている。


添川村
そえがわむら

[現在地名]飯豊町添川

しら川を挟み椿つばき村の南東対岸にある。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「仁十五〆仁百文 そい川」とみえる。天正一五年(一五八七)八月三日の伊達政宗裁許状(小松文書)で「そい川郷」内の「一、はねやしき、一、むかひかハら」が「せんつるこ」「ふくこ」に安堵された。村の南東に大立目遠江守の居館と伝える中世の館跡がある。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一千六〇五石余、免二ツ二分、家数三八(うち役家二〇、肝煎・小走二)・人数一八四、役木として漆・桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は中、修正前の高一千六七六石余。寛永八年分限帳によると当村に給地のある家臣は侍衆樋口内膳など七人。三家中住居之由緒(樋口文書)によれば、直江兼続の家臣樋口・大国・鮎川三氏は当地うわ町に総勢四三名の家中とともに移住、陪臣集落を形成し、未墾地の開発を行った。


添川村
そえかわむら

[現在地名]秋田市添川

濁川にごりかわ村より五町北東、あさひ(旧称添川)沿いの集落。「三代実録」元慶二年(八七八)七月一〇日条に、元慶の乱に関して、出羽権守藤原保則らに味方した「添河、覇別、助川」と三村の名があげられる。また「和名抄」にも「秋田郡添川郷」と記される。「三代実録」の添河村は、秋田市の北東部、添川の流域を広範にさすとみられる(→出羽国

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android