新撰 芸能人物事典 明治~平成 「渡久地政信」の解説
渡久地 政信
トクチ マサノブ
- 職業
- 作曲家,歌手
- 別名
- 幼名=清光(せいこう),芸名=貴島 正一,藤村 茂夫,別名=南 隆行(りゅうこう)
- 生年月日
- 大正5年 10月26日
- 出生地
- 沖縄県 国頭郡恩納村
- 出身地
- 鹿児島県
- 学歴
- 日本大学芸術科音楽専門部特別科〔昭和15年〕卒
- 経歴
- 代々琉球王朝に仕えた士族の家柄で、武士を廃業後は沖縄県恩納村で農耕を営む家に、五人きょうだいの二男として生まれる。大正10年奄美大島に移住。龍瀬尋常小学校4年の夏に父を失う。昭和11年応召して陸軍に入り、13年21歳の時、日中戦争従軍中に中支戦線で右胸貫通銃創の大怪我を負い、傷痍軍人となった。陸軍病院で加療中に音楽の道に進むことを決め、日本大学芸術科音楽専門部特別科に入学。現役免除の後、陸軍からの学資の援助が止まって困窮した際、知人の朝日新聞記者を通じて郷里の先輩である泉二新熊大審院長に相談。この件は記者の手で“大審院長 歌の兵隊を救う”として記事となり、以後も“傷痍軍人出身の片肺歌手”として取り上げられることがあった。卒業後はヴォカルフォア合唱団に在籍し、18年貴島正一の芸名でビクター・レコード専属となり、「別れの潮風」で歌手デビュー。芸名は「別れの潮風」の作曲者である東辰三の命名による。戦後は東の主導で鳴海信輔、竹山逸郎の4人でジャズコーラスのメールフォア合唱団を結成して活動。25年ビクターの専属を解除されたが、同年利根一郎の推挽でキングレコード専属となり、藤村茂夫として「流れ行く花」で再デビュー。この名前は阪神の藤村富美男と巨人の千葉茂の両選手にちなむ利根の命名。26年歌手の道に見切りを付け、作曲家に転向。恩師の利根に転向の意志を告げた翌日、同じく挨拶に立ち寄った郷里の先輩・遠藤朝英(森英夫)宅のピアノで処女作「夢のユイササ」を作曲、すぐに遠藤が歌詞をつけて三門順子によりレコーディングされた。同年東條寿三郎が作詞し、津村謙が歌った「上海帰りのリル」のヒットで一躍作曲家として注目を集め、その後も同じトリオで「私は銀座リル」「リルを探してくれないか」「心のリルよなぜ遠い」といった一連の“リル”ものを書いた。29年沖縄舞踊とブギのリズムを取り入れた「お富さん」が大ヒット。同作は歌舞伎「与話情浮名横櫛」に材をとって山崎正が作詞し、春日八郎が歌ったもので、このヒットに関して、わざわざ演出家の武智鉄二がスタジオに訪ねてきて“貴方は歌舞伎の恩人ですよ。何故かというと、これまで一幕物の芝居だった玄冶店のお芝居が、貴方の作曲した「お富さん」の歌でお客さんの層が広まっているんです。お蔭さんで一幕物の芝居が、大看板になっているんです”とお礼の言葉をいわれたという。30年8月弟子第1号である大津美子を「千鳥のブルース」でデビューさせ、10月には「東京アンナ」でヒット歌手の仲間入りをさせた。同年ビクター専属に復帰、34年フランク永井が歌った「夜霧に消えたチャコ」で第1回日本レコード大賞で作曲賞を受賞した。同年初のリサイタルを開催。他の作品に津村「東京の椿姫」「マドロス追分」「待ちましょう」、岡晴夫「幸せはあの空から」、若原一郎「吹けば飛ぶよな」、三浦洸一「踊子」、フランク永井「俺は淋しいんだ」、佐川ミツオ「背広姿の渡り鳥」、和田弘とマヒナスターズ「お百度こいさん」、松島アキラ「湖愁」、三沢あけみ「島のブルース」、青江三奈「長崎ブルース」など、自伝に「島どう吾ん宝」「潮騒に燃えて」がある。
- 所属団体
- 日本作曲家協会,日本音楽著作権協会(JASRAC)
- 受賞
- 勲四等瑞宝章〔平成5年〕 日本レコード大賞(作曲賞 第1回)〔昭和34年〕「夜霧に消えたチャコ」,日本レコード大賞(功労賞 第30回)〔昭和63年〕,日本レコード大賞(特別功労賞 第40回)〔平成10年〕
- 没年月日
- 平成10年 9月13日 (1998年)
- 伝記
- 潮騒に燃えて―渡久地政信自伝島どぅ吾ん宝 渡久地政信 著渡久地政信著(発行元 サザンプレス晩声社 ’90’81発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報