日本歴史地名大系 「湯浦郷」の解説
湯浦郷
ゆのうらごう
阿蘇谷西部にあり、明治二二年(一八八九)成立の
寛正三年(一四六二)の書写になる建武三年(一三三六)三月一一日の阿蘇社領郷村注文写(阿蘇家文書)に「一所三十町今ハ二十丁 湯浦郷」とみえる。阿蘇谷における郷名は治承年間(一一七七―八一)に検出でき(治承二年三月一三日「阿蘇社宮師僧長慶譲状案」同文書)、平安末期には存在していたといえるので、湯浦郷も他郷と同時期に行政単位として把握されていたといえよう。応永一六年(一四〇九)九月日の湯浦郷坪付山野境等注文写(同文書)によれば、各村の耕作坪付と山野境が明らかにされている。各村は背後に帯状の山野を割付けられ、中央平坦地に向けて田地を耕作し、斜面と平地の接点の湧水地や谷水の吐合地に屋敷が形成されている。これらは文明四年(一四七二)八月二五日の阿蘇山本堂造営棟別料足日記写(同文書)によれば「一所湯浦 家数二百五十 代二貫五百」とあり、二五〇棟の建物があったことになるが、二三ヵ村として一村当り約一一棟の規模となり、実質の経営体は二―五戸程度の屋敷からなる小集落であったと推測される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報