久我荘(読み)こがのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「久我荘」の意味・わかりやすい解説

久我荘 (こがのしょう)

山城国乙訓郡(現,京都市伏見区)にあった久我家名字荘園。12世紀初めにこの地に久我家の別荘久我水閣があり,12世紀末に久我荘は源(久我)通親領となった。その後,上久我荘(久我新荘)と下久我荘(久我本荘)に分かれ,久我家領として戦国末まで存続。1396年(応永3)の上・下久我荘の検注帳,99年の下司名と考えられる成次名の検注帳があり,屋敷,藪林などを合わせて上久我荘は104町余,下久我荘は50町余,成次名は12町余が記載されている。両荘とも名体制をとり,旧名の実質的解体後も,久我家は一名一名主制を維持して年貢や仕丁草,砂掃除などの諸公事徴収を行おうとした。応仁・文明の乱中は西軍の畠山義就に没収されていたが,乱の終息により1477年(文明9)久我家に返却された。久我荘には久我家以外の本所領も含まれており,久我家が管領していたが,乱後荘園支配の弱化に伴い,87年(長享1)以後足利義政の乳母局との荘内法久寺山内跡本役をめぐる相論など,本所との間に相論が起きていた。また,荘内の侍衆や久我家家僕の中には武家の被官となる者がおり,その関係を通じて武家の荘地押領が相次いだ。家僕信濃氏に給与されていた下久我荘預所職は,戦国初期に家僕竹内氏に預けられたが,細川氏家臣によって押領されている。16世紀中ごろに久我荘預所となった竹内季治は,熱烈な法華信者で織田信長に反抗して殺され,久我家より給与された諸職のほか,多くの買得地,用水管理権などを含むその所職所領は,1572年(元亀3)細川藤孝に与えられた。上久我荘の鎮守菱妻神社は,久我家の援助を得て,名主座の9人の名主による輪番頭役制によって祭礼が営まれており,中世宮座好例である。1585年(天正13)の太閤検地の際,久我家は指出しを提出。検地後久我荘の内に1230石を与えられた。しかし,1601年(慶長6)の領地替によって,久我家はこの名字の地において領地を失った。
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百科事典マイペディア 「久我荘」の意味・わかりやすい解説

久我荘【こがのしょう】

山城国乙訓(おとくに)郡の荘園。現京都市伏見区久我一帯。久我家領。12世紀初めにこの地に久我家別邸が営まれ,12世紀末に同家領となった。その後,久我本荘(下荘)と久我新荘(上荘)に分かれたが,久我家領のまま近世を迎えた。14世紀末の面積は上下両荘で150町余,ほかに下司名(げしみょう)12町余があった。上荘には9,下荘には16の名(みょう)(名・名田)があり,上荘鎮守菱妻(ひしづま)神社の宮座(みやざ)には9人の名主(みょうしゅ)で構成する名主座と,その上の預所(あずかりどころ)座があった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「久我荘」の意味・わかりやすい解説

久我荘
こがのしょう

山城(やましろ)国乙訓(おとくに)郡久我(京都市伏見(ふしみ)区)にあった久我家の名字地荘園。すでに12世紀初め久我家別邸の久我水閣(久我山荘)がこの地につくられ、やがて久我本・新荘(下(しも)・上(かみ)荘)として中世を通じその家産経済を支えた。1396年(応永3)の検注帳写(うつし)によれば、池などを含む総面積は上荘104町余、下荘50町余で、それぞれ多数の名請(なうけ)人がいたが、上荘で9名、下荘で16名の名(みょう)がみえ、夫役(ぶやく)などの徴発はこれら名の「当名主(とうみょうしゅ)」を責任者とする体制であった。久我家の領知は織豊(しょくほう)政権によっても安堵(あんど)されるが、1601年(慶長6)の領主替えで消滅する。なお上荘の氏神菱妻(ひしづま)神社(伏見区久我石原町)を中心に荘民の宮座があった。

[久留島典子]

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