日本大百科全書(ニッポニカ) 「演劇学校」の意味・わかりやすい解説
演劇学校
えんげきがっこう
俳優その他演劇に携わる者の養成機関。古くは徒弟制的関係を基礎に現場で自習自得する方法が、日本、西欧を問わず一般的方法であった。しかし、近代になると1795年創立のフランスの国立音楽・演劇学校(通称コンセルバトアール。1946年音楽部門と分かれて独立、現在に至る)を最初とし、有力劇団付属の俳優養成所や名優の指導する養成機関が出現した。さらに現代では大学制度下の演劇科が数多く創設されている。大学演劇科の場合、演劇を理論的研究対象として正課に取り入れた19世紀末のドイツが各国に先駆ける。したがってドイツ語圏の場合は伝統的にアカデミックな要素が強い。それとは好対照的にアメリカでは、演劇の実際面や技術分野に重点を置く傾向が強い。また旧ソ連や中国のような社会主義国では、理論と実践の両面研究を目ざす国立の総合演劇大学が創設された。現在アメリカでは、ハイスクールで専門的な演劇教育をしているところも多く、ほとんどの大学に演劇科があり、付属の劇場と実験劇団をもつところも多い。ロシア連邦では、モスクワのルナチャルスキー演劇大学とサンクト・ペテルブルグのオストロフスキー演劇大学が、ともに1912年創立で有名である。中国では、京劇や地方劇など伝統的な古典芸能と近代的演劇のそれぞれを対象にした総合演劇大学が北京(ペキン)、上海(シャンハイ)にあり、前者を戯曲学院、後者を戯劇学院とよぶ。
日本では明治以降の近代化とともに俳優養成が組織化された。まず新派女優川上貞奴(さだやっこ)主宰の帝国女優養成所と、新派俳優藤沢浅二郎主宰の東京俳優養成所がともに1908年(明治41)に創立され、日本の演劇近代化はまず女優養成から始まった。そして翌年、坪内逍遙(つぼうちしょうよう)は、自邸内に男女共学の文芸協会付属演劇研究所を創立し、2年制の組織的俳優養成・教育機関を設けた。卒業生に松井須磨子(すまこ)、沢田正二郎らがおり、大正期の新劇活動の中核を担った。24年(大正13)発足の築地(つきじ)小劇場は劇団研究生制度をとり、実践的俳優養成の方法をとった。千田是也(せんだこれや)、山本安英(やすえ)、滝沢修(おさむ)、杉村春子らがここから巣立った。30年(昭和5)には6代目尾上(おのえ)菊五郎が、近代的な歌舞伎(かぶき)俳優の養成をも志して日本俳優学校を設立。第二次世界大戦後は、新劇俳優の養成機関として俳優座付属俳優養成所が有名であったが、1967年(昭和42)閉鎖された。
現在は次の3種に大別できる。
(1)文学座、青年座、劇団四季のように自劇団の俳優養成を主眼にした劇団付属の養成機関。
(2)大学の演劇科で、早稲田(わせだ)大学第一文学部演劇映像専修や明治大学文学部演劇学専攻のように研究的色彩の濃い演劇科と、桐朋(とうほう)学園芸術短期大学芸術科演劇専攻のように俳優教育的実践面の強い演劇科との二態である。また理論と実践の両面を含むものとしては、日本大学芸術学部演劇学科、玉川大学芸術学部パフォーミング・アーツ学科、多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科などもある。
(3)舞台芸術学院のような独立した俳優養成機関、ミュージカルやテレビのタレント養成機関も数多い。なお、歌舞伎俳優養成機関として国立劇場歌舞伎俳優研修生制度がある。
[石澤秀二]