滝沢修(読み)タキザワ オサム

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「滝沢修」の解説

滝沢 修
タキザワ オサム


職業
俳優 演出

肩書
劇団民芸代表取締役

本名
滝沢 脩

生年月日
明治39年 11月13日

出生地
東京市 牛込区(東京都 新宿区)

学歴
開成中(旧制)卒

経歴
築地小劇場に加わり、大正14年「ジュリアス・シーザー」で初舞台。昭和5年左翼劇場を経て、9年新協劇団結成に参画、第1回公演の久保栄演出「夜明け前」の青山半蔵役で注目を浴びる。左翼演劇への弾圧が強まった15年逮捕され、1年4ヶ月を獄中で過ごす。戦後22年宇野重吉、森雅之らと民衆芸術劇場(第1次民芸)を結成。25年劇団民芸として再発足して以来代表をつとめ、日本の新劇の代表的俳優となる。その重厚で的確なリアリズム演技には定評があり、代表作に「炎の人―ゴッホ小伝」「セールスマンの死」「オットーと呼ばれる日本人」「狂気と天才」「冬の時代」「夜明け前」「どん底」「火山灰地」「日本改造法案・北一輝の死」などがある。また’70年代からは「その妹」「アンネの日記」などの演出も手がけたほか、映画・テレビにも数多く出演、映画の代表作に「安城家の舞踏会」「原爆の子」「黒い潮」「野火」「霧の旗」「戦争と人間」、テレビではNHK大河ドラマ「赤穂浪士」「源義経」などがある。最晩年まで俳優・演出家として舞台に立ち、平成5年86歳で「終末の刻」を演出・出演、6年米寿で「修禅寺物語」の面作師・夜叉王に初挑戦し、新解釈で演じた。9年90歳で「あっぱれクライトン」を演出したのが最後の仕事となった。戦前獄中生活を送った際、文子夫人と交わした書簡を戦後「愛は風雪に耐えて」の題で出版。他の著書に「俳優の創造」など。また絵と写真は玄人はだしの腕前で知られた。

受賞
芸術選奨文部大臣賞(昭54年度)〔昭和55年〕「アンネの日記」「子午線の祀り」 紫綬褒章〔昭和52年〕,勲三等瑞宝章〔昭和61年〕 芸術祭賞〔昭和26年〕「炎の人」,毎日演劇賞〔昭和26年〕「炎の人」「楊貴妃」,国際映画平和祭最優秀男優賞〔昭和38年〕「原爆の子」,テアトロン賞〔昭和40年〕,毎日芸術賞〔昭和41年〕「セールスマンの死」「オットーと呼ばれる日本人」,朝日文化賞〔昭和41年〕,NHK放送文化賞〔昭和41年〕,ゴールデンアロー賞(演劇賞)〔昭和50年〕「セールスマンの死」,紀伊国屋演劇賞(第13回)〔昭和53年〕「その妹」,芸術祭賞〔平成1年〕「炎の人―ゴッホ小伝」

没年月日
平成12年 6月22日 (2000年)

家族
兄=滝沢 敬一(随筆家),大館 健三(画家),長男=滝沢 荘一(富山国際大学教授)

伝記
文庫本玉手箱名優・滝沢修と激動昭和伝統と断絶モダニズム今昔昔の仲間 坪内 祐三 著滝沢 荘一 著武智 鉄二 著佐藤 朔 著寺田 テル 著(発行元 文芸春秋新風舎風塵社,風濤社〔発売〕小沢書店日本随筆家協会 ’09’04’89’87’86発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「滝沢修」の解説

滝沢 修
タキザワ オサム

昭和・平成期の俳優,演出家 劇団民芸代表取締役。



生年
明治39(1906)年11月13日

没年
平成12(2000)年6月22日

出生地
東京市牛込区(現・東京都新宿区)

本名
滝沢 脩

学歴〔年〕
開成中(旧制)卒

主な受賞名〔年〕
芸術祭賞〔昭和26年〕「炎の人」,毎日演劇賞〔昭和26年〕「炎の人」「楊貴妃」,国際映画平和祭最優秀男優賞〔昭和38年〕「原爆の子」,テアトロン賞〔昭和40年〕,毎日芸術賞〔昭和41年〕「セールスマンの死」「オットーと呼ばれる日本人」,朝日文化賞〔昭和41年〕,NHK放送文化賞〔昭和41年〕,ゴールデンアロー賞(演劇賞)〔昭和50年〕「セールスマンの死」,紫綬褒章〔昭和52年〕,紀伊国屋演劇賞(第13回)〔昭和53年〕「その妹」,芸術選奨文部大臣賞(昭54年度)〔昭和55年〕「アンネの日記」「子午線の祀り」,勲三等瑞宝章〔昭和61年〕,芸術祭賞〔平成1年〕「炎の人―ゴッホ小伝」

経歴
築地小劇場に加わり、大正14年「ジュリアス・シーザー」で初舞台。昭和5年左翼劇場を経て、9年新協劇団結成に参画、第1回公演の久保栄演出「夜明け前」の青山半蔵役で注目を浴びる。左翼演劇への弾圧が強まった15年逮捕され、1年4ケ月を獄中で過ごす。戦後22年宇野重吉、森雅之らと民衆芸術劇場(第1次民芸)を結成。25年劇団民芸として再発足して以来代表をつとめ、日本の新劇の代表的俳優となる。その重厚で的確なリアリズム演技には定評があり、代表作に「炎の人―ゴッホ小伝」「セールスマンの死」「オットーと呼ばれる日本人」「狂気と天才」「冬の時代」「夜明け前」「どん底」「火山灰地」「日本改造法案・北一輝の死」などがある。また’70年代からは「その妹」「アンネの日記」などの演出も手がけたほか、映画・テレビにも数多く出演、映画の代表作に「安城家の舞踏会」「原爆の子」「黒い潮」「野火」「霧の旗」「戦争と人間」、テレビではNHK大河ドラマ「赤穂浪士」「源義経」などがある。最晩年まで役者・演出家として舞台に立ち、平成5年86歳で「終末の刻」を演出・出演、6年米寿で「修禅寺物語」の面作師・夜叉王に初挑戦し、新解釈で演じた。9年90歳で「あっぱれクライトン」を演出したのが最後の仕事となった。戦前獄中生活を送った際、文子夫人と交わした書簡を戦後「愛は風雪に耐えて」の題で出版。他の著書に「俳優の創造」など。また絵と写真は玄人はだしの腕前で知られた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「滝沢修」の意味・わかりやすい解説

滝沢修
たきざわおさむ
(1906―2000)

俳優。本名脩(おさむ)。東京生まれ。開成中学校卒業。1924年(大正13)築地(つきじ)小劇場開場と同時に研究生となり、翌年初舞台、26年には早くも主役を演じた。劇団分裂後は、劇団築地小劇場、左翼劇場、新協劇団と移り、新協劇団旗揚げ公演『夜明け前』の青山半蔵役で絶賛を浴び、『北東の風』『火山灰地』などに名演技をみせた。40年(昭和15)の新劇弾圧で投獄生活を送ったのち、43年芸文座を結成。45年東京芸術劇場を結成したが47年退団、同年民衆芸術劇場の創設に参加、50年にはその後身の劇団民芸を発足させた。宇野重吉とともに同劇団の代表的俳優、演出家として活躍、『炎の人』『セールスマンの死』などの演技は高く評価された。

[水落 潔]

『滝沢修著『俳優の創造』(1982・麥秋社)』

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百科事典マイペディア 「滝沢修」の意味・わかりやすい解説

滝沢修【たきざわおさむ】

新劇俳優。東京生れ。本名脩。1925年築地小劇場に入り,次いで左翼劇場,新協劇団に参加,《夜明け前》《火山灰地》などにおけるリアルな演技で中心的俳優となった。戦後は久保栄らと東京芸術劇場を創立,さらに宇野重吉らと民衆芸術劇場(民芸)を結成し,《セールスマンの死》などで名演技を示した。
→関連項目北林谷栄

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「滝沢修」の意味・わかりやすい解説

滝沢修
たきざわおさむ

[生]1906.11.13. 東京
[没]2000.6.22. 東京
俳優。本名脩 (おさむ) 。開成中学を卒業,1924年築地小劇場に入る。左翼劇場,中央劇場を経て,34年新協劇団に入り,久保栄の薫陶を受けて『夜明け前』の青山半蔵,『火山灰地』の雨宮聡などですぐれた演技を示した。 40年治安維持法に問われ逮捕され,1年4ヵ月獄中生活をおくる。第2次世界大戦後,東京芸術劇場に参加。 47年宇野重吉らと民衆芸術劇場を結成,50年劇団民芸として再発足。以来,同劇団の支柱として活躍した。主要出演作品『炎の人』『セールスマンの死』『オットーと呼ばれる日本人』などのほか,映画やテレビなどにも出演。 1980年代からは演出も担当した。 51年毎日演劇賞,66年朝日文化賞,80年芸術選奨文部大臣賞受賞など数多くの賞を受けた。 97年,90歳で演出した『あっぱれクライトン』が最後の仕事となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「滝沢修」の解説

滝沢修 たきざわ-おさむ

1906-2000 昭和-平成時代の俳優,演出家。
明治39年11月13日生まれ。築地小劇場にはいり,左翼劇場,新協劇団,芸文座などをへて昭和25年宇野重吉らと劇団民芸を結成。「炎の人」「セールスマンの死」などで好演。映画,テレビにも出演,「アンネの日記」などの演出も手がける。平成12年6月22日死去。93歳。東京出身。開成中学卒。本名は脩。

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367日誕生日大事典 「滝沢修」の解説

滝沢 修 (たきざわ おさむ)

生年月日:1906年11月13日
昭和時代;平成時代の俳優;演出家
2000年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の滝沢修の言及

【劇団】より

…拠点劇場を持たない劇団がけいこ場を小劇場活動の拠点とした最初である。滝沢修(1906‐ ),宇野重吉(1914‐88)らの〈民芸〉(正称は〈劇団民芸〉)は,1947年に創立された〈民衆芸術劇場〉が発展的解消をとげ,50年に再建された劇団である。俳優座,文学座,民芸は〈三大新劇団〉といわれ,さらに山本安英(やすえ)(1902‐93)らの〈ぶどうの会〉,村山知義らの再建〈新協劇団〉,そして〈文化座〉の6劇団が戦前・戦中の流れをくむ劇団として戦後の再スタートを切った。…

【新協劇団】より

…1934年左翼劇場の解散など,弾圧を受けるプロレタリア演劇運動の危機のなかで,新劇団の大同団結を提唱する村山知義(ともよし)の呼びかけに応じ,旧左翼劇場のメンバーを中核に新築地劇団からの参加者も加えて組織された。文芸・演出部の村山,久保栄(さかえ)を中心に,滝沢修,小沢栄太郎,細川ちか子(1905‐76),三島雅夫(1906‐73)らの演技陣によって,島崎藤村原作《夜明け前》,久保栄作《火山灰地》,久板(ひさいた)栄二郎作《北東の風》,真船(まふね)豊作《遁走譜(とんそうふ)》など社会主義リアリズムの力作を次々に上演し,第2次世界大戦前の新劇活動において一時期を画したが,40年8月19日,関係者の一斉検挙にあい,国家権力により強制的に解散させられた。 第2次大戦後,村山が再建にのりだし,46年2月には再建第1回公演を持った。…

【新劇】より

…ここでは全体的には土方の前衛志向よりも,小山内のモスクワ芸術座を手本とする近代写実演技様式の日本的な移植・形成が行われたということができるだろう。第2次大戦後の新劇界をリードした人々には,築地小劇場の研究生だった者が多く,たとえば千田是也,山本安英(1902‐93),滝沢修(1906‐ )は初期の研究生であり,杉村春子(1906‐97)は最後のころの研究生であった。 築地小劇場が小山内の急死によって分裂,解散(1929)した後,以降,右傾化する国家権力により後述の新協,新築地両劇団が強制的に解散させられる(1940)までの期間は,それまでの数多くの欧米近代劇上演によって刺激され,また培われてきた日本近代戯曲の,いわば真の開花期であり,また心理主義的なフランス近代戯曲の翻訳上演期でもあった。…

【築地小劇場】より

…当初翻訳劇のみを上演する方針をとったため,文壇から糾弾され,経営の困難や思想的混乱から試行錯誤をくりかえしたが,芸術的統率者としての演出者の地位確立,ヨーロッパ現代劇の移入紹介,創作劇の上演などに画期的な成果を収めていった。千田是也,山本安英,杉村春子,滝沢修など現代の新劇団の指導者もここから多く育った。28年末に小山内が急逝し,翌29年には土方らが結成した〈新築地劇団〉と,残留組の〈劇団築地小劇場〉とに分裂し,劇団としての活動を終えた。…

【民芸】より

…正式名称は〈劇団民芸〉。1950年,〈民衆芸術劇場〉(1947創立)を解消・発展するかたちで,宇野重吉(1914‐88),滝沢修(1906‐ ),森雅之(1911‐73),岡倉士朗(1907‐59),北林谷栄(1911‐ )らによって創立された。久保栄,三好十郎,木下順二らの創作劇や,A.ミラー《セールスマンの死》,《アンネの日記》,イプセン《民衆の敵》,A.N.アルブーゾフ《イルクーツク物語》などの翻訳劇で地歩を固め,昭和20年代,30年代を通じ,新劇界の中枢的劇団として多くの人々に親しまれた。…

※「滝沢修」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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