片瀬村(読み)かたせむら

日本歴史地名大系 「片瀬村」の解説

片瀬村
かたせむら

[現在地名]藤沢市片瀬・片瀬一―五丁目・片瀬海岸かたせかいがん一―三丁目・片瀬山かたせやま一―五丁目・片瀬目白山かたせめじろやま

南は相模湾に臨み、さかい(片瀬川)下流左岸に位置し、西部が低地で、東部は丘陵地帯。鎌倉郡に属し、北は川名かわな村に接し、南は海を隔てて江の島。藤沢宿からの江の島道がほぼ南北に通る。

天平勝宝元年(七四九)「方瀬郷」の大伴部首麻呂が調庸布一反を納めている(「調庸布墨書」正倉院文書)。鎌倉への出入口にあたり、「吾妻鏡」建保六年(一二一八)三月二四日条に「固瀬駅」、建長四年(一二五二)四月一日条には「固瀬宿」とみえる。境川河口近くの片瀬川原一帯は、鎌倉期から室町初期頃にかけて処刑地であり戦場でもあった。その地を「吾妻鏡」は固瀬かたせ河あたりとか腰越こしごえ(現鎌倉市)浜辺などと伝え、「北条九代記」「太平記」は当村の小名たつくちと伝える。龍ノ口は現片瀬三丁目にある龍口りゆうこう寺付近をいい、日蓮が処刑されようとした地といわれる。元弘三年(一三三三)新田義貞の鎌倉攻めでは五月一八日に(同年一二月日「天野経顕軍忠状写」県史二)、建武二年(一三三五)中先代の乱では八月一九日に(「足利尊氏関東下向宿次・合戦注文」県史三)「片瀬原」での戦いがみえる。

片瀬村
かたせむら

[現在地名]東伊豆町片瀬

奈良本ならもと村の南、伊豆半島東岸のほぼ中央部に位置する。白田しらだ川は天城あまぎ山系より東流し相模灘に流入する。河口近くを東浦ひがしうら路が南北に通じる。大川おおかわの三島神社が所蔵する明応九年(一五〇〇)一一月六日付の白田の某社棟札に「片瀬郷中勧進」とある。天文一二年(一五四三)二月二五日付の奈良本の鹿島神社棟札に「河津庄内片瀬村奈良本里鎮守」とあり、中世の片瀬村は河津かわづ庄内となっており、北隣の奈良本も当村内に含まれていた。永禄一二年(一五六九)閏五月四日の北条家朱印状写(三島古文書)によると、毛利丹後守(北条高広)の所領である片瀬・稲取いなとりの代官・百姓中に対し三嶋社(三嶋大社)神事銭の納入が命じられている。

片瀬村
かたせむら

[現在地名]森町一宮いちみや

大久保おおくぼ村の北東伏間ふすま川と一宮川の合流点右岸にある。天正九年(一五八一)三月七日の竜沢寺再建勧化帳写(竜沢寺文書)には、「遠州カタセ」の高雲こううん(現曹洞宗)が越前竜沢りゆうたく(現福井県金津町)再建のため、三〇〇文と立物として木綿一反を納めたとある。慶長二年(一五九七)の榛原郡外勘定免目録(一豊公紀)によれば一宮筋御蔵入免目録のうちに記され、高頭三五三石余、うち二三五石余が毛付分で物成一四八石余。正保郷帳では高五九七石余、うち田方三七七石余・畑方三七石余が常陸牛久藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android