牛村
あごうじむら
[現在地名]西伯町下中谷
入蔵村の南東、法勝寺川支流
牛川の中流に位置する。集落より西方へ一五町ほどで出雲国境へ至り、北は信頼村。古くは赤牛と記して(正保国絵図など)、「あかうじ」とよみ、のちに「あごうじ」に転訛したという。また「あかうじ」「あごうじ」のよみは寺名にちなむともいう(伯耆志)。金クソ堀などの地名が残り、鉱滓が出土した地も多い。拝領高は二〇四石余、本免は五ツ一分。
牛村
あいうしむら
[現在地名]様似郡様似町字
岡田・字
西様似 明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治一五年(一八八二)までの村。様似郡の西部、様似川の中流右岸に位置し、南の岡田村まで六町、北の累地村まで八町、西は鵜苫川を境に浦河郡杵臼村(現浦河町)に接する(「日高国地誌提要」「改訂様似町史」など)。近世の史料に「ヲシヤラツケ」(「戊午日誌」志也摩尼誌など)とみえる地などからなっていた。玉虫「入北記」(安政四年九月一日条)には七筆に分れて「ヲシヤラツケ村」がみえ、合せて家数七、人別五二(男二五・女二七)。
牛
村
うしくびりむら
[現在地名]豊里町上里
今鹿嶋村の西、東西に分れて南流する西谷田川に挟まれた微高台地に位置。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「百卅九石九斗壱升九合八勺 うしくひり」とあり、佐竹(東)義久に宛行われていた。江戸後期には天領で、竹垣直温が代官であった(竹垣君徳政之碑)が、「各村旧高簿」によると幕末には旗本三宅三郎知行地五九・四四六石、能勢幸次郎知行地七九・三〇八石、久野伊兵衛知行地八四・二一六石、高田
之介知行地三四・七五四石、武島兵之助知行地二一・〇八五石、天領一二二・二二八石、鹿島社除地〇・三六石、遍照院除地二・五二石があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 