牛淵村(読み)うしぶちむら

日本歴史地名大系 「牛淵村」の解説

牛淵村
うしぶちむら

[現在地名]菊川町牛渕うしぶち

小沢こざわ村の北、牛淵川の上流に位置し、四面を山に囲まれた盆地状の村。東部は牧之原まきのはら台地に連なる。元和三年(一六一七)三月「牛淵村長者原新田」の開発手形(加藤家文書)が七右衛門宛に出されており、年貢は三ヵ年経過後は一〇分の一、諸役は永赦免とある。同六年二月にも同じく七右衛門に長者原ちようじやばら新田の開発手形(同文書)が出されている。寛永二一年(一六四四)には高三四六石余で幕府領、この年掛川藩預となる(掛川預一万石郷村覚)正保郷帳によると田方二八四石余・畑方五八石余、「水損」「はへ山」「芝山」「新田有」の注記がある。


牛淵村
うしぶちむら

[現在地名]重信町牛淵

重信川中流右岸の農村。東は田窪たのくぼ、北は西之岡にしのおか、西は北野田きたのだ南野田みなみのだ、南は重信川を隔ててうえの村々に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴うけな郡の項に「牛淵村 日損所、小川有」とあり、村高九二八石三升九合、うち田七五四石二斗四升三合、畑一七三石七斗九升六合と記されている。

山裾部には古墳が発見され、古い開発を物語る。元久二年(一二〇五)閏七月の「吾妻鏡」に河野通信麾下の三二人の御家人の一人として田窪太郎高房の名がみえ、「予陽河野家譜」にはその舎弟として牛淵孝清の名が記されている。


牛淵村
うしふちむら

[現在地名]三田市西相野にしあいの

まがり村の南西、大川瀬おおかわせ村の北東に位置し、西は丹波国多紀たき釜屋かまや(現篠山市)。山間部に開けた農業地域で、灌漑用溜池が多い。丹波国境三本さんぼん峠を越えて播磨清水きよみず(現社町)に至る巡礼道が通る。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)によれば、大川瀬住吉神宮の北境の一部は「シミツトウケヨリウシフチ」であった。もと曲村のうちであったが、原野開発により文化五年(一八〇八)に分離し牛淵村と称したという(「御領分御高付覚」九鬼家文書)。しかし江戸時代を通して郷帳類では曲村一村で高付された。中央の小高い山に丸山まるやま(藍丸山城)跡があり、その麓に浄土真宗本願寺派明楽みようらく寺がある。


牛淵村
うしぶちむら

[現在地名]芦北町田川たがわ

佐敷さしき川が見附みつけ村で支流久野くの(現田川川)合流、久野川上流が牛淵村、その上流に野々木ののき村といま村がある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳久野川くのかわ村のうちに牛淵村の名があり、五人の百姓名が記される。同一六年の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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