牛田村
うしだむら
[現在地名]知立市牛田町
西に池鯉鮒町、東に八橋村・来迎寺村が隣し、北を逢妻男川が流れ、村の中央を猿渡川が西南流する。東海道沿いの街村。村名の由来は、この郷田が開発されたとき氏神に牛頭天王の后稲田姫を祀ったことからきたといわれる(知立町誌)。貞和二年(一三四六)九月一一日付の二階堂文書に次のようにみえる。
<資料は省略されています>
牛田下切は本郷にあたる区域をさし、下切はのち下側とよばれた。熊野那智大社文書によれば、応永一六年(一四〇九)に、三河に熊野信仰を広げようと進出した権大僧正良尊は、その手控に西三河地方の郷村名を書残しているが、なかに「一所 牛田三ケ郷」と出ている。三ヶ郷はのちの東側(組)・西側(組)・下側(組)となる。天文二年(一五三三)刈谷城を築いた水野忠政は、牛田政興に命じて領地東端の牛田村に築城させた。
牛田村
うしたむら
[現在地名]東区牛田〈南一―二丁目・東一―四丁目・本町一―六丁目・中一―二丁目・早稲田一―四丁目・旭一―二丁目・新町一―二丁目〉・牛田山
北・南・東の三方を山に囲まれ、西を太田川の支流京橋川が流れる。安芸郡に属し、南は広島城下の明星院村、北は新山村にそれぞれ接し、京橋川対岸の白島村(現中区)へは神田橋が通じ、東の中山村との間には槙峠があった。
奈良時代から鎌倉時代初頭にかけては奈良西大寺領の牛田庄で、宝亀一一年(七八〇)一二月二五日の西大寺資財流記帳(西大寺文書)に「安芸国安芸郡牛田庄図二巻」とみえ、建久二年(一一九一)五月一九日付西大寺所領庄園注進状案(同文書)に「安芸郡牛田庄 墾田七十九町」とある。近世牛田村の田畠が約八〇町であるから、右の墾田は未開原野を含むものであろう。正応二年(一二八九)正月二三日付沙弥某譲状(田所文書)によれば、在庁官人田所氏は牛田村に私領田をもち、「牛田村弥富名内崩田七反半」を所従清次郎に下作させていたことがわかる。
牛田村
うしたむら
[現在地名]桃生町牛田
南西流する北上川左岸にあり、集落は上下に分れる。北は倉埣村、東は永井村、南は寺崎村、西の北上川対岸は登米郡赤生津村(現豊里町)。気仙道が通る。慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記(伊達家文書)の葛西中に「うし田の内 舟壱そう」とある。寛永六年(一六二九)の登米伊達家二代白石刑部太輔(宗貞)宛の伊達政宗領知黒印状(同文書)には登米として「牛田村」とあり、五貫三四五文が記される。
牛田村
うしたむら
[現在地名]藤岡市牛田
神流川が南境を東流する三名川を合して東境を北流し、東は武蔵国賀美郡小浜村(現埼玉県児玉郡神川村)、西は神田村、南は保美村、北は川除村・本郷村と接する。十石街道が村央を南北に通る。室町初期に鎌倉明王院に寄進されていたと思われ、康応元年(一三八九)八月一六日の同院への大石重能の打渡状(明王院文書)に「浄法寺九郎入道跡平塚・牛田・岩井」とあり、応永二五年(一四一八)三月三〇日には長谷河山城守の押妨を止め同院への安堵の関東管領家奉行人連署奉書(同文書)が出されている。
牛田村
うしたむら
[現在地名]津島市牛田町
北は越津村、東は百嶋村、南は百町村、西は日光川に接している。織田信雄分限帳に「一、八拾貫文 うし田の郷 滝久内」とあるのが文献上の初見。弘化四年(一八四七)村絵図(徳川林政史蔵)によれば、集落は村域の北端にあって「府志」記載の鎮守の山王社は北の越津村境に記され、越津村境から日光川堤にかけて小堤が描かれている。「徇行記」は「竹木モ少ク一瀬戸ニテ水場下免ノ所ナリ、此村ハ越津ヨリ地卑クケレトモ村界小
ヲ以テ上ノ潦水ヲサクルナリ」と記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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