犬山城下
いぬやまじようか
木曾川に面する標高八〇メートルの丘陵に作られた犬山城を中心とした城下町。尾張北端に位置し、内田ノ渡などにより美濃との接点をなし、対美濃との関係上、軍事的に重要地点であった。丘陵より北方を見れば、眼下の木曾川を隔てて美濃を見下ろすことができ、南方を見れば南に広がる尾張平野が見渡せる。「正事記」によれば、現在地に城を築いた小笠原吉次は丘陵下南の七軒(間)町の住民を転居させ三の丸とし、その後次々に堀を作り、石垣を築いた。城主平岩親吉の代(一六〇七―一一)には「中切村の地を裂て町家を引移し、坂下大本町とし給ふて、跡は武家陌と成」(犬山里語記)と記されるように、武家地・町地の配置が決められていった。
元文五年(一七四〇)の犬山城下絵図(犬山市蔵)によれば、木曾川に面する北・西は城山(丘陵)を中心に石垣をめぐらし、南と東は堀で城郭を囲んでいる。城郭内は、山頂の天守から南へ本丸・杉の丸・樅の丸・桐の丸・松の丸とあり、これらを北西から南西へ内堀で囲み、さらに南下すると外堀に接する三の丸、表玄関口の大手門となる。ここからまっすぐ南下する道があり、その南端には東西に堀が延びている。堀は、西の方で段丘の上を北に延び、東の方で北宿の東を北に走っている。堀で囲まれた城下は、東西四本・南北五本の道が交差し、西端の南北に走る道の両側、東南部の北宿、東北部の新道両側に武家屋敷が集められている。町家はこれらの武家屋敷に取囲まれる形になっている。
城下からの出入口をみると、西北端に鵜飼町口、西部中央に坂下口、南部西寄りに外町口、南部東寄りに薬師口、東部中央に寺内町口、東部北寄りに余坂口、北部東寄りに瓦坂がある。坂下口の木戸は初め夜間には閉められ、中切村へ行くには鵜飼町口を回って出たが、享保一三年(一七二八)の火事以後は危険を避けるため、宵の間は通路御免となった(犬山里語記)。外町口には枡形があり、この木戸を出ると名古屋街道である。名古屋街道は、以前庚申堂の所(大本町通と名栗町通の交点)より下へ段を下りていったが、成瀬正虎の代(一六二五―五九)羽黒村の大榎まで開通され段の上に替わった(同書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の犬山城下の言及
【犬山[市]】より
…名古屋の近郊として住宅地化も進行しつつある。【井関 弘太郎】
[犬山城下]
尾張国の城下町。地名の初出は後醍醐天皇の皇子宗良親王の《李花集》。…
※「犬山城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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