狐塚村(読み)きつねづかむら

日本歴史地名大系 「狐塚村」の解説

狐塚村
きつねづかむら

[現在地名]いわき市四倉町狐塚よつくらまちきつねづか

仁井田にいだ川と原高野はらごや川に挟まれ、南西大森おおもり村、東は新田にいだ村、北東塩木しおき村。村名の狐塚は北条時頼が狐を退治して埋めたことによると伝える。永徳四年(一三八四)八月日の好島東庄放生会祭礼役注文(飯野八幡宮文書)に「富田・新田・狐塚・四町目・塩木五ケ村寄合 西庁屋五間作之」「狐塚・四町目・塩木・富田四ケ村寄合大瓶并十二合」とみえる。康正三年(一四五七)七月二〇日の岩城清隆去渡状(上遠野家古文書)によれば、村内に沢渡丹波守子息の知行地があり、上遠野氏に宛行われている。


狐塚村
きつねづかむら

[現在地名]栗橋町狐塚

中里なかざと村の南西に位置し、東をしま川が流れる。川沿いに堤防(島中囲堤)がある。元亨四年(一三二四)二月八日の下河辺荘公事注文案(金沢文庫文書)に「キツ子ツカ」の地名がみえ、称名しようみよう(現神奈川県横浜市金沢区)領であったことがわかる。田園簿に村名がみえ、田高一八石余・畑高一七九石余で、幕府領元禄郷帳では高一六五石余。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも幕府領。助郷は日光道中中田なかだ宿(現茨城県古河市)栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)


狐塚村
きつねづかむら

[現在地名]古川市狐塚

遠田とおだ郡西端部にあり、北は沼木ぬまぎ(現遠田郡田尻町)、東は馬放まはなし村、南は休塚やすみづか村、西は栗原郡荒谷あらや村、休塚村に接する。「安永風土記」によれば、かつては染田村と称したが、無双の美女であった百姓の妻を栗原郡の狐が奪おうと役人に化け、犬に殺された。狐の死骸を埋めて塚を築いたので村名がおこったという。また、狐が婚礼の席に化けて出て、犬に殺されたという伝説もある(遠田郡誌)正保郷帳に田四五貫八〇文・畑三貫七七五文とあり、ほかに同所新田一貫四七〇文がある。


狐塚村
きつねづかむら

[現在地名]富山市水橋狐塚みずはしきつねづか

白岩しらいわ川と上市かみいち川の中間に位置し、西は下条開発げじようかいほつ村。正保郷帳では高三九四石余、田方二六町余・畑方三反。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高四三一石・免四ツ。寛文一〇年(一六七〇)・天保九年(一八三八)の草高・免に変化はない(三箇国高物成帳、「高免等書上帳」折橋家文書)。所属組は文政八年(一八二五)下条組、天保一〇年以降は組替え後の下条組。


狐塚村
きつねづかむら

[現在地名]丸子町大字塩川しおがわ

依田窪よだくぼの北東部塩川郷(旧塩川村一帯)のうち、西部段丘崖が浸食されて、自然の登り口状になった段丘上にある村。東は条里的遺構を残す水田地帯が広がっている。その東は坂井さかい村、西は依田川、南は長瀬ながせ村、北は石井いしい村。

江戸時代以前は塩川郷であったが、元禄一五年(一七〇二)信濃国郷帳には「塩川狐塚村」とあるので、江戸初期に塩川村から分村して独立した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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