塩川村(読み)しおかわむら

日本歴史地名大系 「塩川村」の解説

塩川村
しおかわむら

[現在地名]塩川町 中町なかまち東栄町ひがしさかえちよう一―六丁目・新町あらまち高道たかみち源屋げんや米沢町よねざわちよう新丁しんちよう諏訪町すわちよう反町そりちようふじ石田いしだ石橋いしばし恵比寿喜田えびすきた大在家おおざいけ岡の前おかのまえ勝木田かつきだ籠田かごだ加羅八がらはち柿在家かきざいけ経塚きようづか窪田くぼた小在家こざいけ三反川原さんだんがわら四郎田しろうでん清水岸しみずぎし下川原しもがわら諏訪前すわまえたてうちたけはな竹屋町たけやちようつき土屋新田つちやしんでん中島なかしま西岡にしおか西にし新田しんでん西内にしうち沼尻ぬまじり鼠田ねずみだ原口はらぐち蛭田ひるた東川原ひがしがわら東岡ひがしおか古戸城ふるとじよう古町ふるまち古城ふるしろ身神みかみ横巻よこまき新江木にえき

現塩川町の中央南部を占め、西流する日橋につぱし(阿賀川支流)の北岸に位置する。姥堂うばどう川が村の北辺から東辺を南東流し、同川を合せる大塩おおしお川が当地で日橋川に注ぐ。江戸時代には檜原ひばら峠越米沢街道(下街道)の宿駅、阿賀川舟運の川湊として発展、地内には町場が形成され塩川町ともよばれていた。塩川組に属し、同組の行政の中心村である。村の南西に方一〇間ほどの泉があり、ここから潮が湧出し、日橋川に注いでいたことが村名の由来と伝え、塩河とも記した(新編会津風土記)。町場は古町・中町・新町・新丁などの街区に割られ、高札場が置かれた。本村の北西に端村の上江うわえ(現新江木)がある(同書)

「塔寺長帳」応永二五年(一四一八)一月条裏書には「塩河陣」「塩河野御陣」などとみえ、応永年間の黒川くろかわ(現会津若松市)城主蘆名氏と一族の新宮しんぐう(現喜多方市)城主新宮氏との抗争で、蘆名氏はしばしば当地に出陣している。享徳二年(一四五三)には蘆名盛詮に対して反旗を翻した重臣松本典廐が、猪苗代盛光の援助も得て日橋川対岸の浜崎はまさき(現湯川村)や当地の館を拠点に盛詮と対峙した。しかし同年九月一七日「しをかわのたて」は会津勢、浜崎館は白河勢によって落され、同月二五日典廐は自害している(同書享徳二年条裏書など)。この「しをかわのたて」は村の南、大塩川と日橋川の合流点付近にあり、柏木かしわぎ城ともよばれる。「新編会津風土記」によると、蘆名直盛の臣浜崎主馬某の築造と伝え、長禄年中(一四五七―六〇)には七宮勘解由左衛門盛種、天正(一五七三―九二)頃には同下総憲勝(自然斎)・その子栗村弾正左衛門尉憲俊が館主であったという。

永正二年(一五〇五)に起こった蘆名盛高・盛滋父子の対立では、同年一〇月九日に「しほ川へ両方折立」橋詰に攻め寄せての合戦となり、同月一四日盛滋方は敗れて、出羽長井ながい(現米沢市など)へ逃れている(「塔寺長帳」同年条裏書)。天正一三年五月檜原口(現北塩原村)より会津に攻め入った伊達勢に対し、蘆名氏諸将は当地に陣を布き、反撃の態勢を整えている(「会津旧事雑考」など)


塩川村
しおがわむら

[現在地名]須坂市塩川 塩川町

現須坂市中央部。北はきたさわで須坂・沼目ぬまめ、東は道路で須坂・小山こやま、南は道で小山、西は小山・八重森やえもりの各村と境する。東部は須坂扇状地の扇端湧水地、西部は低湿地である。北東部字寺沢てらさわからは御堂尻みどじり川である。中部の字早津はやつの湧水はみや川となり、南部の長者清水ちようじやしみず(東方に字長者)を合わせ、北流して御堂尻川を合わせ百々どど川に入る。口碑には湧水はもっと上手にあったと伝える。

慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳には、「五百六拾石五斗六升 塩川村」とある。


塩川村
しゆがーむら

[現在地名]多良間村塩川しおかわ

多良間島のほぼ東半部を占め、西は仲筋なかすず村に接する。方言でシュガー。多良間島三ヵ村の一つ。両島絵図帳では「たらま嶋」とあるのみだが、向裔氏正統一世朝裔が天啓元年(一六二一)八月一日付で塩川与人に叙任されており(向裔氏正統家譜)、慶長検地の頃までには塩川村が成立していたものと思われる。宮古島の諸村位定では布上・石下(里積記)とあり、多良間島公事帳では水納みんな村とともに下布二〇反余のほか、毎年御用夫賃米布として白木綿布二〇反、毎年諸御殿御用として同布三〇反、牛皮一一枚・黒胡麻三斗余を宮古島に積み渡して上納することになっている。


塩川村
しおがわむら

[現在地名]吉井町塩川

本郷ほんごう村の東、東と南は吉井村と接し、北境をかぶら川が東流、西境大沢おおさわ川が北流する。村名は大沢川岸から塩分を含む鉱泉の湧出にちなむといい、近年まで浴場があった。文明一八年(一四八六)八月、越後から当国に入った聖護院道興は「宮の市、せしもの原、しほ川」などの多野一帯の名所を歴覧している(廻国雑記)。「簑輪軍記」によれば菅野間大膳が城主の「塩川」の小城があり、永禄六年(一五六三)二月に武田信玄勢によって落城している。寛永二年(一六二五)吉井・塩河村三二三石余が長谷川久三郎に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では田方二〇石一斗余・畑方一七九石八斗余、幕府領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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