猪苗代城跡(読み)いなわしろじようあと

日本歴史地名大系 「猪苗代城跡」の解説

猪苗代城跡
いなわしろじようあと

[現在地名]猪苗代町 古城町・城南など

磐梯山南東山麓から南に延びる舌状台地(比高約三〇メートル)の上にある平山城で、かめヶ城ともよぶ。天正一七年(一五八九)までは猪苗代氏累代の居城であった。近世には会津藩の支城となって城代が置かれ、城の北部・東部一帯に城下が形成されている。

中世、当城に拠って猪苗代地方に勢力を振るった猪苗代氏は会津蘆名氏の一族で、蘆名盛連(平姓三浦氏佐原義連の子)の長男経連が猪苗代地方を領し猪苗代氏を称したことに始まるという(「新編会津風土記」など)。同氏の系譜は「伊達世臣家譜」に収める猪苗代氏系図や「耶麻郡誌」所載の猪苗代系図などいくつかあって異同はあるものの、いずれも経連を始祖としている。「会津古塁記」などは経連が当地に城を築いたのを建久二年(一一九一)のこととするが、惣領蘆名氏が会津地方になんらかのかたちで勢力を築いたのは鎌倉中期以降(宝治合戦以降)と推定されるので(「福島県史」など)、当城の築城も一三世紀以降のことと思われる。なお「温故拾要抄」などでは、経連が猪苗代八手山はつてやま城を築き、同城を亀ヶ城と名付けたとされるので、この城を当城とみるむきもあるが、「新編会津風土記」によると、経連の居館八手山館は白津しろづ村の「根岸山」にあったといい、当城(亀ヶ城)と八手山館は別の城と考えられよう。

前述のように猪苗代氏は猪苗代地方をその勢力下としていたと思われるが、永和元年(一三七五)一一月一〇日には三浦(猪苗代)盛通の妻ゑかくが重代相伝の耶麻郡下利根川しもとねがわ(現塩川町)の地を子息三郎(刑部大輔)に譲り(「ゑかく譲状」示現寺文書など)、応安四年(一三七一)九月五日には猪苗代氏と推定される刑部大輔盛親が大沼郡中河なかがわ(現会津高田町)の在家一宇を実相じつそう(現会津若松市)に寄進しており(「刑部大輔盛親寄進状案」新編会津風土記)、猪苗代地方以外の地域にも所領を有していたと思われる。応永年中(一三九四―一四二八)守護大名化を進める蘆名氏と庶子諸家の間で抗争が続いた。同一一年七月の仙道諸家一揆傘連判(有造館本結城古文書写)には「猪苗代参河守盛親」の名がみえ、同二七年には蘆名氏が猪苗代に出陣している(塔寺長帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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