漢の武帝により前108年,朝鮮に設置された漢四郡の一つ。はじめ沃沮(よくそ)の地(現在の咸鏡道方面に比定される。中心は咸興)に設置された。玄菟郡はその後中国支配の後退,周辺諸民族の台頭によってしだいに西北に移動するが,これを概括的に記すと前82年から前75年にかけて諸郡の改廃が行われたとき蘇子河上流(現,遼寧省新賓付近?)に移ったものとみられ,これがいわば第2次玄菟郡とでもいうべきものであろう。移動の原因は高句麗の圧迫によるものとみられる。さらに後漢の中期ころ,106年安帝の時代に玄菟郡は三たび西遷して遼東の一部を含むにいたった。その中心地はほぼ現在の撫順付近に比定されている。第3次玄菟郡とでもいうべきものである。郡は漢の滅亡後もひき続いて名目上は三国魏の支配下におかれ,ついで西晋の治下におかれたが,台頭する高句麗の勢力には敵すべくもなく4世紀初頭,高句麗によって併合され滅亡した。毌丘倹(かんきゆうけん)の高句麗遠征のとき,玄菟の太守王頎(おうき)が北沃沮まで高句麗王の位宮を追求したことは有名である。
執筆者:村山 正雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、漢の武帝の朝鮮遠征によって衛氏(えいし)朝鮮が滅ぼされ、その結果設置された朝鮮四郡(漢四郡)の一つ。4郡のうち、臨屯(りんとん)、真番(しんばん)の2郡はまもなく廃され、楽浪(らくろう)、玄菟の2郡についても郡治の位置や境域は、かならずしも明確でない。とくに玄菟郡は高句麗(こうくり)勢力の興隆に伴ってしだいに西方へ後退した。その設置は紀元前107年であり、郡治は吉林(きつりん/チーリン)省集安(しゅうあん/チーアン)付近に推定されるが異説もある。そののち三十数年にして郡治は興京(こうけい)老城(遼東(りょうとう)省興京)に移り、紀元106年には現在の撫順(ぶじゅん/フーシュン)市付近に後退した。郡治はいずれも高句麗県とよばれ、その後、三国時代まで存続したが、西晋(せいしん)の末(315)に高句麗に攻略された。
[李 成 市]
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…その言語は高句麗と大同小異で,四方を強敵に包囲されているため,必然的に高句麗の直接間接の支配をうけざるをえなかった。前108年,漢の武帝が漢四郡を設けたとき,沃沮は玄菟郡(げんとぐん)治に入った。そのころの中心地は現在の咸興に比定されている。…
※「玄菟郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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