改訂新版 世界大百科事典 「生産性向上運動」の意味・わかりやすい解説
生産性向上運動 (せいさんせいこうじょううんどう)
productivity drive
第2次大戦後,資本主義諸国の国際的運動として展開された合理化運動。生産性運動とも呼ばれる。両大戦間にはドイツの産業合理化運動やアメリカの無駄排除運動などが各国別に実施されたのに対し,生産性向上運動はアメリカによる対外援助政策の一環として開始された点に特徴がある。援助政策の目的は,被援助国の経済復興と経済発展を通じて国民の生活水準を上昇させ,それによって社会主義化を食い止めることにあった。運動の端緒は,マーシャル・プランにもとづく1948年経済協力法によって与えられた。
生産性向上運動はイギリスから開始された。1948年経済協力法と同じ4年間の有効期限で,英米生産性協議会が設立された。協議会のおもな任務は訪米チームの派遣であった。この間に5人ないし18人から成る66の訪米チームがそれぞれ6週間にわたって経営技術と生産技術の視察を行い,その報告書は内外に大きな影響を与えた。この財政の約2/3がアメリカによって負担された。52年にはこれに代わってイギリス生産性協議会が発足した。ドイツでは1950年にドイツ経済合理化委員会が,さらに52年にはドイツ生産性評議会が設立された。フランスでは1950年に経済省にフランス生産性委員会が設置され,実施機関としてフランス生産性向上協会などの民間団体が創設された。このほかオーストリア,オランダ,ベルギー,イタリアなどOEEC加盟国に,生産性機関がアメリカの働きかけと援助によってつぎつぎと発足した。53年には加盟国の個別的活動を補足するため,ヨーロッパ生産性本部(EPA)が組織された。
西ヨーロッパ諸国に次いで生産性機関が設置されたのは日本である。すでに財界の一部がヨーロッパの運動に注目し,また通産省の調査にもとづいて産業合理化審議会が日本においても生産性機関を創設するよう具申していたが,具体的な契機はアメリカからの働きかけであった。約2年の準備期間を経て55年に財団法人日本生産性本部が設立された。当初数年間のおもな活動は,英米生産性協議会と同じく,訪米チームの派遣であり,アメリカの援助は55年から62年まで続けられた。日本生産性本部はとくに経営技術の普及などで大きな成果を収めたが,戦後日本の生産性の向上をもたらしたのは,なによりも労働三法をはじめとする戦後改革であったことが忘れられてはならない。日本と並行して台湾(1955)や韓国(1957)などでも,アメリカの働きかけで生産性機関が設立された。61年には日本,台湾,韓国,インド,ネパール,パキスタン,フィリピンおよびタイの参加した政府間協定によって,国際機関であるアジア生産性機構(APO)が発足し,事務局は東京に置かれた。APOもまた財政の相当額をアメリカの援助に頼っていたが,現在はほぼ各国の拠出金のみによって運営されるようになっている。
ところで生産性向上運動においては,労働組合は経営者に協力して生産性向上に努め,そのうえで成果の公正な分配を要求すべきだと主張されている。だが現実には,マーシャル・プランと生産性向上運動の評価をめぐって世界労連のなかで対立が生じ,推進派は脱退して1949年に国際自由労連を結成するに至った。日本でも総評が生産性向上運動に反対したのに対し,同盟の前身である総同盟や全労(正称は全国労働組合同盟)などは生産性本部の結成直後から参加した。このような状況のなかで,国鉄の生産性向上運動について公労委が71年に不当労働行為の認定を行い,当局に陳謝を命令する事態が生じた。
→合理化
執筆者:木下 順
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報