略称総評。1950年(昭和25)7月11日、日本の労働運動の大勢を制した民主化同盟派(民同派)組合と、日本労働組合総同盟(総同盟)左派とによって、加盟17組合、公称377万4891人(オブザーバー17組合、63万4924人)で結成された全国中央組織(ナショナル・センター)。1989年(平成1)11月21日、日本労働組合総連合会(連合)の結成を受けて解散した。
[松尾 洋]
1949年ドッジ・ライン実施の下に進められた行政整理・企業整備を通じて反対闘争の指導に失敗した共産党系組合幹部・活動家が馘首(かくしゅ)され、民同派によって制覇された主要労働組合が、同年11月全国労働組合統一準備会を組織し、翌1950年3月には総評結成準備会へ発展した。従来、総同盟、産別民同、国鉄民同をはじめ各組合の民同派は、全国労働組合連絡協議会(全労連)にかわる緩やかな連絡機関として全国労働組合会議の結成を準備していたが、連合国最高司令部(GHQ)労働課は、より強固な国際自由労連(ICFTU)加盟の全国中央組織の結成を構想し、1949年11月ロンドンで開催された同労連結成大会にGHQが旅費を負担して日本労働組合代表5名を送り込むなど強力な指導を行った。1950年6月朝鮮戦争が始まる一方、GHQの命令によるレッド・パージで共産党員およびその同調者が職場から追放されるという異常な情勢下で、総評は反共産党、ICFTU指向、北朝鮮軍の侵略非難などを宣言して結成された。これは同時に、共産党がリードしてきた日本の労働組合運動において、社会党の指導権が確立したことをも意味した。
しかし、その後の軍事特別需要の増大を通じて日本経済が復活し、雇用が拡大する一方、低賃金・長時間就業で労働者の生活と権利とが脅かされ、アメリカが単独講和と日米安全保障条約との締結を推進して日本の軍事基地化・従属化の危険が生じたため、総評は早くも変化を示した。1951年3月の第2回大会ではICFTUへの一括加盟案を否決、全面講和、中立堅持、軍事基地提供反対、再軍備反対の平和四原則を採択し、GHQの意図に反し「ニワトリの卵からアヒルがかえった」といわれた。この結果、民同派は左右に分解し、総評の主流を占める左派は労働者同志会を結成、愛国労働運動を提唱する右派は民主労働運動研究会(民労研)を組織し、抗争を開始した。
[松尾 洋]
総評は、1952年の単独講和・日米安保条約発効の時期には、破壊活動防止法の公布、労働基準法の改正に反対して結成された労働法規改悪反対闘争委員会(労闘)の4次にわたる抗議ストの中核になった。また、組合員大衆の生活に依拠したマーケット・バスケット方式に基づく全国一律8000円の最低賃金制を含む「賃金綱領」を発表した。同年秋には、日本炭鉱労働組合(炭労)と日本電気産業労働組合(電産)が同綱領に基づく賃金引上げ要求のストライキを決行し、「電気事業及び石炭産業における争議行為の方法の規制に関する法律」(ストライキ規制法)の公布(1953)、電産の分裂と崩壊、全日本海員組合(海員)など4単産の総評脱退・全日本労働組合会議(全労会議)結成のきっかけになった。1953年には日産自動車の賃金引上げの大争議(5~9月)が起こり、全日本自動車産業労働組合(全自動車労組)の分裂と崩壊の原因になった。
総評はまた、各地の軍事基地化反対闘争・平和運動を支援し、朝鮮休戦が成立、日米MSA(相互防衛援助)協定の締結された1953~1954年には、平和経済国民会議の運動を提唱するとともに、資本の合理化・企業整備に対抗して炭鉱・鉄鋼などの企業で「ぐるみ闘争」を展開した。しかし、1955年以降、日本経済が好況に転ずると同時に、戦術を転換して賃金引上げのための産業別統一闘争を指導し、その後の高度経済成長にのって春闘方式を打ち出し、中立労働組合連絡会議(中立労連)系の労働組合などとの共同闘争を拡大していった。また、これと並行して1957年の教員に対する勤務評定反対闘争、1958年の警察官職務執行法改正反対闘争、1959~1960年の日米安保条約改定阻止闘争、1965年の日韓条約反対闘争などの政治的統一行動の中心的動員部隊になり、その権威を高めた。
[松尾 洋]
1967年、総評加盟の全逓信(ぜんていしん)労働組合(全逓)、日本鉄鋼産業労働組合連合会(鉄鋼労連)などから、共産党を除く革新政党の結合を目ざす労働戦線の統一が提唱され、1968年から全日本労働総同盟(同盟)、中立労連、全国産業別労働組合連合(新産別)の枠を踏み出した、民間労組を先行させた労働戦線の再編・統一の動きが出てきた。総評は、民間単産の右寄り結集を目ざすこの動きに、官・民を含む労働戦線の全的統一を基本として、あるいは反対し、あるいは譲歩して対応してきたが、1972年12月総選挙における社会・共産両党の躍進や、1973年春闘での官公労働者のスト権奪還を目ざす総評の政治闘争強化などで同盟が消極化し、労働戦線統一は頓挫(とんざ)した。
しかし、1978年から労働戦線の統一は同盟の提唱で再燃。社会党の低落傾向に危機感をもつ総評は、1979年ごろから共産党排除の社会・公明連合政権構想支持、労働組合主義是認、ICFTU指向などの右寄り傾向を深めつつ、1980年発足の民間6単産委員長による統一推進会構想の民間先行の労働戦線統一準備会へ条件付きながら参加、1982年12月全日本民間労働組合協議会(全民労協)結成に一役買った。
[松尾 洋]
全民労協は、民間組合の間に勢力を拡大し、1987年には加盟55組合、オブザーバー加盟および友好組織合わせて6組合、555万人と、総評の407万人をしのぐ勢力となった。11月には全日本民間労働組合連合会(連合)を結成し「労働組合の基盤強化をはかり、自由にして民主的な労働運動を強化・拡大」「労働界全体の統一、すなわち1国1ナショナル・センターの実現に努める」ことを基本目標として掲げた。総評は傘下の鉄鋼労連さえ、総評の方針に反して国際金属労連日本協議会(IMF・JC)に参加して独自の統一方針を進め、総評中心の統一を旗印にしていた電機労連をはじめ中立労連の諸組合も連合中心の統一を目ざすようになっていたので、官公労働組合が多数を占めるようになった総評は、官民分断を避けるためにも連合との統一に努めることになった。かくして1989年11月、「連合と官公労組の統一大会」として日本労働組合総連合会(連合)が結成された。新しい連合の発表によれば正式加盟75組織、795万8380人、オブザーバー加盟1組織、900人、友好組織5組織、13万0699人、総計81組織、808万9979人にのぼった。これは日本の組織労働者の約3分の2にあたり、連合は日本労働組合運動史上最大のナショナル・センターとなった。総評はこれと同時に解散して連合に統一したが、これを右翼的統一だと批判した日本医療労働組合連合会(日本医労連)、全日本運輸一般労働組合(運輸一般)、全日自労建設一般労働組合(建設一般全日自労)、日本国家公務員労働組合連合会(国公労連)の4単産は「階級的ナショナル・センター確立に全力をあげる」としてその他の組合を糾合し、全国労働組合総連合(全労連)を結成した。総評は、解散後は連合に「ただちに引き継ぐことが困難な運動と総評の精算業務」を果たすとして総評センターを設立し、社会党との連絡、各種選挙活動、原水爆禁止運動、護憲運動などの政治・国民運動などのセンターとしての役割を果たした。こうした運動は、旧同盟(全日本労働総同盟)がその解散後、友愛会議として連合内に存続し、活動したのと同様である。総評センターは1994年春に解散して、前もってつくられていた「社会党と連帯する会」に、中立労連連絡会の電機労連などを加えて活動を存続し、友愛会議も1994年1月に解散したが、友愛会として組織は残った。
[松尾 洋]
『日本労働組合総評議会編『総評二十年史』上下(1974・労働旬報社)』▽『岩井章編著『総評労働運動の歩み』(1974・国際労働運動研究協会)』▽『大原社会問題研究所編『日本労働年鑑』各年版(労働旬報社)』
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…正称は日本労働組合総評議会。加盟組合員数,労働組合数ともに日本最大の労働組合全国中央組織(ナショナル・センター)であったが,1989年11月,総評は39年の歴史を閉じて解散した。…
※「日本労働組合総評議会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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