日本歴史地名大系 「田上郷」の解説
田上郷
たがみごう
現田上町・
貞和三年(一三四七)七月七日の足利直義下知状(県立歴史博物館蔵)によれば、金子大蔵左衛門尉親定に「加賀国田上郷一方地頭職」が安堵されている。下知状によれば、当地頭職は正応元年(一二八八)九月二日の関東下文(鎌倉将軍惟康親王家政所下文)や嘉元四年(一三〇六)八月一八日の外題安堵、文保元年(一三一七)一二月一日の譲状などによって安堵され続けてきたものだが、康永三年一〇月から始まった越中の前守護井上(普門)俊清との合戦に親定が参陣しなかったため、加賀の守護代額斎藤(富樫)用家が親定の所領を没収して兵粮料所に充ててしまった。規定は建武二年(一三三五)以来の忠節を主張し、俊清との合戦の時は病中の自分に代わって参陣した子の高親・親安らが戦功をあげたことは用家が証判を加えた軍忠状に明白で、用家の行為は「押領」にほかならないと抗議、直義も親定の領有権を認めた。
貞和五年六月二九日の室町幕府引付頭人奉書(真田文書)によれば、直義側近の上杉重能は親定の所領「田上郷一方」のうちにまだ用家が「渡残」し押領を継続している個所があるとして、福益孫三郎とともに親定の所領回復を完遂するよう
田上郷
たのかみごう
「和名抄」高山寺本は「多乃加美」と読み、同書名博本は「タノカミ」の訓を付す。平城宮跡出土木簡に「(表)阿波国板野郡田上郷
当郷について「阿府志」「阿波志」ともに「此地未詳」、あるいはその地の比定を行っていない。
田上郷
たかみごう
田上郷
たがみごう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報