日本大百科全書(ニッポニカ)「加賀国」の解説
加賀国
かがのくに
本州中央部の日本海沿岸地域に位置し、現在の石川県域の南半部にあたる旧国名。初め越前(えちぜん)国に属したが、823年(弘仁14)3月、律令(りつりょう)制下の最後の建置国として、越前国北域の江沼(えぬま)・加賀2郡を割いて加賀国が設置された。加賀立国に伴い、江沼郡管下の13郷・4駅のうち、北半部の5郷・2駅を割いて能美(のみ)郡が設けられ、加賀郡管下の16郷・4駅のうちでも、南半部の8郷・1駅が割かれて石川郡が置かれ、4郡構成となった。国府は小松市古府(こふ)に置かれ、国分寺も定額寺の勝興(しょうこう)寺を転用して近くに置かれたが、遺跡としては古府廃寺が比定されている。『延喜式(えんぎしき)』(927成)には、国内の小社42座を官社として登載しており、綾(あや)・帛(はく)・絹が調(ちょう)に、白木韓櫃(しらきのからびつ)・綿・米が庸(よう)に、紙・茜(あかね)・紅花・熟麻(にお)・呉桃子(くるみ)・荏油(えのあぶら)・海藻・雑魚腊(きたい)(丸干し)が中男作物(ちゅうなんさくもつ)として、それぞれ貢納物に規定されていた。
平安末期、平氏一門の知行国(ちぎょうこく)となったが、延暦寺(えんりゃくじ)の末寺で大いに勢威のあった白山宮加賀馬場(はくさんぐうかがばんば)や、手取(てどり)川扇状地に割拠する林・富樫(とがし)氏らの有力武士団は、平氏の支配に反抗し、1183年(寿永2)木曽(きそ)(源)義仲(よしなか)が北陸道を西上してくるとその麾下(きか)に属した。翌年、義仲が没落すると、加賀を含む北陸道諸国は、鎌倉幕府の支配下となり、鎌倉殿勧農使比企朝宗(ひきともむね)が派遣され、鎌倉期の守護には、北条朝時(ともとき)らを確認できる。1335年(建武2)建武(けんむ)政権のもとで、地元武士の富樫高家(たかいえ)が守護に登用され、室町幕府体制下でも、室町前期の一時期を除き、富樫氏が守護職をほぼ世襲した。同氏は、本貫地に隣接する石川郡の野々市に守護所を置き、領国経営を展開したが、幕府の介入と一族間の内訌(ないこう)に悩まされ、1488年(長享2)守護富樫政親(まさちか)は、真宗本願寺派の坊主・門徒ら(一向一揆(いっこういっき))に攻められ、自害して果てた。この結果、戦国期の加賀は「百姓持ちの国」となり、本願寺一門の若松本泉寺(わかまつほんせんじ)などが主導したが、やがて金沢御堂(かねざわみどう)を拠点に本願寺の直接支配が強まった。1580年(天正8)織田信長の部将柴田(しばた)勝家らの攻略によって、金沢御堂は陥落、100年近く続いた一向一揆体制は解体した。古代の加賀郡は、南北朝期にはすでに河北郡と改称されている。
近世になって、佐久間盛政(さくまもりまさ)が金沢城に配置されたが、1583年(天正11)前田利家(としいえ)が能登(のと)から加賀に移り、金沢城に入った。ついで1600年(慶長5)前田利長(としなが)は加賀・能登・越中(えっちゅう)3か国の領有を遂げ、「加賀百万石」の基礎が固められた。江戸期の加賀国は、大半が加賀藩領であったが、江沼郡全域と能美郡6か村は支藩の大聖寺(だいしょうじ)藩領であり、白山麓(ろく)18か村は幕府領となっていた。また、犀川(さいがわ)河口の金沢外港の宮腰(みやのこし)や、手取川河口の能美郡の本吉(もとよし)などは、日本海海運の港町として繁栄し、銭屋(ぜにや)五兵衛・木谷(きや)藤右衛門らの海の豪商が輩出した。近世の物産に、加賀友禅、金沢箔(はく)、九谷焼(くたにやき)、山中漆器などがある。
1871年(明治4)廃藩置県によって金沢県・大聖寺県が生まれ、大聖寺県はまもなく金沢県に併合、翌72年石川県と改称した。当時の加賀国の戸数は9万3329軒、人口は35万5576人で、うち人口12万余の金沢は、江戸・大坂・京都の三都に次ぐ大都市であった。
[東四柳史明]
『下出積与著『石川県の歴史』(1970・山川出版社)』▽『若林喜三郎監修『石川県の歴史』(1970・北国出版社)』▽『若林喜三郎編著『加賀・能登の歴史』(1978・講談社)』