加賀国(読み)カガノクニ

デジタル大辞泉 「加賀国」の意味・読み・例文・類語

かが‐の‐くに【加賀国】

加賀

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日本歴史地名大系 「加賀国」の解説

加賀国
かがのくに

弘仁一四年(八二三)三月一日、越前国江沼えぬま・加賀両郡を割いて設置された国。江沼郡から能美のみ郡、加賀郡から石川郡が割かれて四郡となった(日本紀略)。南は越前国、北は能登国、東は越中国に接し、西は日本海に臨む。室町期以降加賀郡が河北かほく郡となるが、近世中期には一時的に両郡名が併用された。

古代

〔道君と江沼臣〕

当地域に置かれた大和政権の地方官である国造は、加我(賀我)国造・加宜国造・江沼国造(国造本紀)であった。このうち加我国造とされた道君の支配領域は、現金沢市の長坂二子塚ながさかふたごづか古墳を盟主墳とする古墳群の分布と対応し、江沼国造とされた江沼臣の場合は、現加賀市狐山きつねやま古墳を盟主墳とする古墳群の分布と対応する。欽明天皇三一年四月二日江渟臣(江沼臣)裙代が、漂着した高句麗使人を道君が隠匿したと大和政権に報告した(日本書紀)。この事件は両者の大和政権に対する従属の差異を表すと考えられる。江沼臣は当時の大和政権を主導する蘇我氏と同祖の系譜をもつことから、すでに服属していたとみられ、一方、道君は勢力を急速に伸張させ、君の称を許されていることなどからも、両者が大和政権に従属しつつも、拮抗・対立する状況にあったといえよう。七世紀末には道君も大和政権への接近の度合を深め、天智天皇に采女として差出され、施基皇子を生んだ道君伊羅都売の存在がこれを物語る(日本書紀)。国郡制施行により、手取川を境界に道君の勢力圏である北部が越前国加賀郡、江沼臣の勢力圏の南部が同江沼郡とされ、道君・江沼臣は郡司に転換した。なお郡制に先行する評制の施行については、現小松市金比羅山こんぴらやま一号窯出土須恵器の刻書銘に「与野評」とみえることから、可能性がうかがわれる。

〔奈良時代〕

天平三年(七三一)二月二六日の越前国正税帳、同五年閏三月六日の越前国郡稲帳、同一二年の越前国江沼郡山背郷計帳(以上正倉院文書)などによると、加賀郡では正稲中に占める穎稲の比率の高さ、公出挙の量や糒の貯蔵量の多さが注目される。また同二年同郡に帰着した送渤海客使引田中麻呂一行に食料五〇石を支出している。天平宝字六年(七六二)には来国した渤海使王新福が滞在しており(「続日本紀」同年一〇月一日条)、渤海使を接待する義務が課せられていた。また長岡京跡出土木簡によれば、各郷から白米の貢進が行われていた。北陸道の越前・越中では、貴族・官寺による占有が強力に推し進められたが、中間にある当地域はすこぶる低調であった。

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改訂新版 世界大百科事典 「加賀国」の意味・わかりやすい解説

加賀国 (かがのくに)

北陸道7ヵ国の一つ。加州。いまの石川県南半部。

律令体制成立以前は(こし)と呼ばれた地域の一部で,7世紀末の国評制の施行から奈良期を経て平安初期に至るまでは越前国に属したが,823年(弘仁14)に越前守紀末成(きのすえなり)の建議によって,越前国北半部の江沼・加賀2郡を割いて新たに立国された。律令国家にとって最後の一国建置である。立国にともなって,江沼郡北半が能美郡,加賀郡南半が石川郡として分郡され,江沼,能美,石川,加賀(南北朝期以後は河北)の4郡編成となる。立国の理由には,越前の管内が広域すぎることに加えて,北部の加賀郡の郡司・郷長の違法行為の激化があげられている。立国当初は中国であったが,2年後の825年(天長2)に上国に昇格。国府は南部の能美郡の梯(かけはし)川中流域北岸(現,小松市古府町)に置かれ,国津は能美郡の比楽(ひらか)湊(現白山市,旧美川町)であった。国名には,国府所在郡の郡名が用いられず,管内加賀郡の郡名が好字として採用されている。《和名類聚抄》に見える郡郷数は4郡30郷,田積は1万3766町余。《延喜式》にあらわれる官社は,すべて小社で42座,調として貢納を義務づけられていた特産の主体は綾,帛,絹,糸である。

 平安前期には,たびたび日本海対岸から来着する渤海使の安置・供給(くごう)を命ぜられている。平安中期の1012年(長和1)に加賀国の郡司・百姓等が,加賀守源正職の悪政32ヵ条を列挙して解任を訴えたが,不成功に終わった。奈良期から平安中期までの荘園の成立は概して低調であり,国衙領の残存度が大きい。宮廷の吉書始(きつしよはじめ)に加賀国の解文(げぶみ)を用いる儀礼が目だつのも,このことに由来するのであろう。平安後期には院宮分国となる機会が多く,この時期に成立した皇室領荘園の比重が大きい。平安後期以降の在庁の主力は,大江,橘,斎藤(藤原)氏などの外来勢力によって占められ,奈良期以来の郡領氏族の衰退は比較的早い。形成期の武士団の小棟梁は加賀斎藤一門の林氏であるが,白山宮加賀馬場(加賀国一宮)に衆徒(しゆと)・神人(じにん)として身を寄せる上層百姓の寄人(よりうど)化運動が強く,武士団の規模は小さい。平安末期の1177年(治承1)加賀守藤原(近藤)師高の目代(もくだい)で弟の師経が,白山宮加賀馬場中宮(ちゆうぐう)の末寺を焼き払ったことに抗議して,中宮3社の衆徒・神人が本寺延暦寺を動かして強訴(ごうそ)を展開,師高・師経兄弟を解任・流罪にさせている。この事件を契機に,後白河院と平氏の対立が鮮明となり,鹿ヶ谷事件を誘発し,治承・寿永の内乱の導火線を準備した。

治承・寿永の内乱が起こったときの加賀は,平氏一門が特殊な権益をもつ平氏知行国の一つであったが,加賀国住人は1181年(養和1)に能登・越中とともに一国規模の反乱を起こして平氏の支配を排除し,越前に攻め込み反乱を北陸道一帯に拡大した。次いで83年(寿永2)には加賀国住人が木曾義仲の指揮下に加わって南下し京都を占領するが,翌84年(元暦1)に義仲が滅亡したのちは,鎌倉殿勧農使比企朝宗(ひきともむね)の進駐を受け,鎌倉の源頼朝の支配下に置かれた。まもなく守護不設置の国となるが,反鎌倉勢力が強く,1221年(承久3)の承久の乱の際には,加賀斎藤一門の小棟梁の林氏や白山宮加賀馬場本宮の神主上道(かみつみち)氏の一部が,京方に属して没落する。以後,守護名越(北条)朝時の支配を受け,鎌倉末期まで北条一門が守護職を継承した。鎌倉期の荘郷地頭のほとんどは得宗家,名越氏,結城氏,摂津氏などの東国御家人であり,とくに承久の乱後に新補された外来地頭が目だっている。承久の乱後,地元領主のなかで有力化したのは加賀斎藤一門の富樫(とがし)氏であるが,鎌倉期には守護職入手の機会は得られなかった。鎌倉末期の流通経済の支配者は,守護北条氏や有力地元領主富樫氏よりもむしろ白山宮加賀馬場本宮であり,特産の紺布,酒,油などの流通機能は本宮衆徒が掌握していた。

 南北朝内乱直前の1335年(建武2)に足利尊氏の指揮下に加わった富樫高家が守護職に補任され,南北朝内乱期の加賀の領主のほとんどは足利尊氏・義詮(よしあきら)方に属した。しかし北加賀の金子氏,福益(ふくます)氏など,一部に足利直義(ただよし)・桃井直常(もものいなおつね)方に従ったものもあり,彼らと尊氏方勢力との間に武力衝突が反復された。南北朝期から室町期にかけて守護職は富樫氏が継承するが,87年(元中4・嘉慶1)から1414年(応永21)の間は斯波(しば)氏に奪われている。守護所は石川郡の野市(ののいち)(現,野々市市)に置かれ,特産の絹,梅染布,酒などを主体とした流通経済の核も,南北朝初期には白山宮加賀馬場本宮から野市に移っている。室町期の加賀には幕府料所や幕府と結びつきの強い寺領が濃厚に分布し,国人のなかにも結城氏,狩野氏,松任(まつとう)氏,倉光氏など,幕府奉公衆に名を連ねるものが多く,守護富樫氏による領国支配の貫徹は容易でなかった。外様の弱小守護である富樫氏の地位は,有力大名や国人の権力抗争によって動揺を続け,1458年(長禄2)には北加賀半国の守護職が赤松氏の手に渡り,きわめて不安定な状態で応仁の乱を迎えている。

 加賀は白山信仰の本拠地の一つであり,在地の寺社勢力のなかで鎌倉期まで最も勢威を誇っていたのは,天台延暦寺末の白山宮加賀馬場であった。しかし鎌倉期後半から加賀馬場の内部抗争が激化して勢力が衰え,かわって白山信仰を基盤に置いた新仏教の浸透が顕著となる。その一つは時宗であり,鎌倉末期から海沿いの流通路を拠点とする時衆の分布が濃厚となる。これと並行して,越前の永平寺を中核としていた曹洞禅も,鎌倉末期に徹通義介(てつつうぎかい)が石川郡野市の大乗寺に迎えられたのを契機として伝播し,その弟子の瑩山紹瑾(けいざんじようきん)による精力的な布教がはじまるが,まもなく瑩山派の拠点は能登に移った。真宗の信仰の定着を示す確実な初例は,1419年に親鸞絵伝が下付されている江沼郡熊坂荘荻生(現,加賀市荻生町)の荻生道場(願成寺)であり,この前後から高田派,三門徒派,本願寺派が競合しながら教線を伸ばしている。このうち本願寺派の門徒は,室町期を通し巧如(ぎようによ),存如によって点と線の形で確保されていたが,それが面としてのひろがりをもつのは,応仁・文明の乱のさなかの71年(文明3)に越前・加賀国境の吉崎(現福井県あわら市,旧金津町吉崎)に吉崎坊を開いた蓮如のときであり,百姓のほぼ全面的な本願寺門徒化により,国人,地侍の大半も本願寺門徒のなかに身を置くこととなった。この結果,吉崎坊が創建されてまもないころから,本願寺門徒は加賀全域で一揆を構成し,積極的な納税拒否闘争を展開する。

 応仁の乱を機会に北加賀の守護赤松氏が本領の播磨などを回復すると,加賀の守護職は富樫政親と幸千代の兄弟を擁立する2派の国人によって争われることとなった。幸千代派と高田門徒の結合に対抗して,本願寺門徒もまた政親派に加勢する形で権力抗争に介入し,74年の〈文明の一揆〉で幸千代派を打倒する。この〈文明の一揆〉によって,本願寺門徒の一向一揆は加賀一国の実質的な支配権を手中におさめ,続く88年(長享2)の〈長享の一揆〉で,守護権力の回復をはかった富樫政親を石川郡の高尾(たこう)城に滅ぼした。〈長享の一揆〉の結果,加賀一向一揆は富樫氏を名目的な守護としながらも,完全に本願寺門徒による自主管理の体制を確立し,守護大名の支配を排除した史上類例の乏しい共和政体を構築する。その後1世紀にわたった共和政体の前半段階を主導したのは,蓮如の子が配置された河北郡若松本泉寺,能美郡波佐谷(はさだに)松岡寺,江沼郡山田光教寺の〈賀州三ヵ寺〉であったとされるが,隣国越前,能登,越中での守護権力の打倒をめざした1506年(永正3)の〈永正の一揆〉に失敗したのちは,〈賀州三ヵ寺〉と越前系の藤島超勝寺,和田本覚寺や本願寺家臣団との抗争が激化し,31年(享禄4)の〈享禄の錯乱〉によって,主導権は本願寺家臣団や超勝寺,本覚寺に移る。46年(天文15)には石川郡の金沢に金沢坊が建設され,加賀一国の流通機構は寺内町金沢に集積された。越後の長尾(上杉)氏,越前の朝倉氏の武力干渉を長期にわたって排除し続けた加賀一向一揆は,織田信長朝倉義景を滅ぼした翌年の74年(天正2)に,一時的に越前をも一向一揆の支配する国とするが,上杉謙信と織田信長の激しい挟撃を受けて内部分裂を深め,75年には南加賀,80年には金沢坊を中核とする北加賀も織田信長に占領され,82年に最後まで抵抗を続けた山内(やまのうち)(手取谷)の一揆も虐殺されて,〈百姓ノ持タル国〉といわれた自主管理の歴史を閉じた。
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織田信長軍は1575年に加賀国南半(江沼・能美郡)を攻め取り,80年には全域を支配して,大聖寺,小松,松任,金沢の各城に守将を置いた。83年,羽柴秀吉が越前の柴田勝家を滅ぼしたとき,前田利家が加賀国北半(石川・河北郡)を加封されて金沢城に入った。他の城将も政治・軍事情勢の推移につれて交代したが,利家を継いだ利長が1600年(慶長5)に徳川方について加賀南部で戦い,加賀一国は前田氏の領有に帰した(加賀藩)。39年(寛永16)に大聖寺藩7万石を分立。以後は廃藩置県まで大名の変更はなかった。ただ,白山麓は中世以来,杣(そま)取権争論が続いており,福井・加賀両藩の境界問題にもなったので,68年(寛文8)柴田勝家治政以来越前国とされていた16ヵ村と加賀国の2ヵ村を幕府領とし,〈越前加賀白山麓〉と称させた。加賀国の石高合計は1664年の朱印高で41万6622石,戸口は1872年(明治5)の戸籍で9万6673戸,40万3357人であった。町奉行を置いた町は金沢,宮腰(みやのこし),松任,小松,本吉(美川町),大聖寺で,このうち宮腰・本吉は西廻り航路の港町,他は北陸街道沿いにあった。百万石の城下金沢は人口約10万と推定され,全国有数の大都市であった。また小松城は一国一城令の制外として残されていた。農産物は米のほか,石川郡の菜種,鶴来の煙草,江沼郡の茶,小松の藺草(いぐさ)などがあり,工産品では小松・大聖寺の絹,九谷焼,山中塗,河北郡二俣の紙,金沢の菅笠などがあった。金沢城の御細工所で優れた工芸品が作られたが,庶民にはほとんど無縁であった。しかし,その技術の一部は今日の地域伝統産業にも生かされている。1872年7月金沢県,大聖寺県となり,白山麓18ヵ村は本保県(のち福井県,足羽県)に属した。11月大聖寺県を金沢県に併合し,73年2月石川県と改称,9月七尾県(能登一国)を併合,11月白山麓18ヵ村を併合した。その後,越中,越前を合わせ,また分離して,83年5月に現在の石川県域が確定した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「加賀国」の意味・わかりやすい解説

加賀国
かがのくに

本州中央部の日本海沿岸地域に位置し、現在の石川県域の南半部にあたる旧国名。初め越前(えちぜん)国に属したが、823年(弘仁14)3月、律令(りつりょう)制下の最後の建置国として、越前国北域の江沼(えぬま)・加賀2郡を割いて加賀国が設置された。加賀立国に伴い、江沼郡管下の13郷・4駅のうち、北半部の5郷・2駅を割いて能美(のみ)郡が設けられ、加賀郡管下の16郷・4駅のうちでも、南半部の8郷・1駅が割かれて石川郡が置かれ、4郡構成となった。国府は小松市古府(こふ)に置かれ、国分寺も定額寺の勝興(しょうこう)寺を転用して近くに置かれたが、遺跡としては古府廃寺が比定されている。『延喜式(えんぎしき)』(927成)には、国内の小社42座を官社として登載しており、綾(あや)・帛(はく)・絹が調(ちょう)に、白木韓櫃(しらきのからびつ)・綿・米が庸(よう)に、紙・茜(あかね)・紅花・熟麻(にお)・呉桃子(くるみ)・荏油(えのあぶら)・海藻・雑魚腊(きたい)(丸干し)が中男作物(ちゅうなんさくもつ)として、それぞれ貢納物に規定されていた。

 平安末期、平氏一門の知行国(ちぎょうこく)となったが、延暦寺(えんりゃくじ)の末寺で大いに勢威のあった白山宮加賀馬場(はくさんぐうかがばんば)や、手取(てどり)川扇状地に割拠する林・富樫(とがし)氏らの有力武士団は、平氏の支配に反抗し、1183年(寿永2)木曽(きそ)(源)義仲(よしなか)が北陸道を西上してくるとその麾下(きか)に属した。翌年、義仲が没落すると、加賀を含む北陸道諸国は、鎌倉幕府の支配下となり、鎌倉殿勧農使比企朝宗(ひきともむね)が派遣され、鎌倉期の守護には、北条朝時(ともとき)らを確認できる。1335年(建武2)建武(けんむ)政権のもとで、地元武士の富樫高家(たかいえ)が守護に登用され、室町幕府体制下でも、室町前期の一時期を除き、富樫氏が守護職をほぼ世襲した。同氏は、本貫地に隣接する石川郡の野々市に守護所を置き、領国経営を展開したが、幕府の介入と一族間の内訌(ないこう)に悩まされ、1488年(長享2)守護富樫政親(まさちか)は、真宗本願寺派の坊主・門徒ら(一向一揆(いっこういっき))に攻められ、自害して果てた。この結果、戦国期の加賀は「百姓持ちの国」となり、本願寺一門の若松本泉寺(わかまつほんせんじ)などが主導したが、やがて金沢御堂(かねざわみどう)を拠点に本願寺の直接支配が強まった。1580年(天正8)織田信長の部将柴田(しばた)勝家らの攻略によって、金沢御堂は陥落、100年近く続いた一向一揆体制は解体した。古代の加賀郡は、南北朝期にはすでに河北郡と改称されている。

 近世になって、佐久間盛政(さくまもりまさ)が金沢城に配置されたが、1583年(天正11)前田利家(としいえ)が能登(のと)から加賀に移り、金沢城に入った。ついで1600年(慶長5)前田利長(としなが)は加賀・能登・越中(えっちゅう)3か国の領有を遂げ、「加賀百万石」の基礎が固められた。江戸期の加賀国は、大半が加賀藩領であったが、江沼郡全域と能美郡6か村は支藩の大聖寺(だいしょうじ)藩領であり、白山麓(ろく)18か村は幕府領となっていた。また、犀川(さいがわ)河口の金沢外港の宮腰(みやのこし)や、手取川河口の能美郡の本吉(もとよし)などは、日本海海運の港町として繁栄し、銭屋(ぜにや)五兵衛・木谷(きや)藤右衛門らの海の豪商が輩出した。近世の物産に、加賀友禅、金沢箔(はく)、九谷焼(くたにやき)、山中漆器などがある。

 1871年(明治4)廃藩置県によって金沢県・大聖寺県が生まれ、大聖寺県はまもなく金沢県に併合、翌72年石川県と改称した。当時の加賀国の戸数は9万3329軒、人口は35万5576人で、うち人口12万余の金沢は、江戸・大坂・京都の三都に次ぐ大都市であった。

[東四柳史明]

『下出積与著『石川県の歴史』(1970・山川出版社)』『若林喜三郎監修『石川県の歴史』(1970・北国出版社)』『若林喜三郎編著『加賀・能登の歴史』(1978・講談社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「加賀国」の解説

かがのくに【加賀国】

現在の石川県南半部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で北陸道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の小松市におかれていた。初め越前(えちぜん)国に属していたが、823年(弘仁(こうにん)14)に分立。平安時代から皇室摂関家(せっかんけ)などの荘園(しょうえん)が多く、末期には平氏(へいし)一門の知行国(ちぎょうこく)となった。鎌倉時代守護は比企(ひき)氏、北条氏南北朝時代から室町時代は富樫(とがし)氏だったが、1488年(長享(ちょうきょう)2)の一向一揆(いっこういっき)により滅亡した。以後100年にわたり「百姓ノ持タル国」として続いたが、織田信長(おだのぶなが)に制圧された。関ヶ原の戦い後は前田氏が領有、以後日本海海運の拠点となって豪商銭屋五兵衛(ぜにやごへえ)らを輩出、また加賀友禅(ゆうぜん)九谷焼(くたにやき)、山中塗(やまなかぬり)などを生み出し、「加賀百万石」として栄えた。1871年(明治4)の廃藩置県により金沢県となり、翌年に石川県と改称、のち七尾(ななお)県を合併した。◇加州(かしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加賀国」の意味・わかりやすい解説

加賀国
かがのくに

現在の石川県の南半部。北陸道の一国。上国。もと賀我,江沼の国造が支配。初め越前国に属したが,弘仁 14 (823) 年独立して一国となった。国府,国分寺ともに小松市古府町。『延喜式』には江沼 (えぬま) ,能美 (のみ) ,加賀 (かか) ,石川 (いしかは) の4郡がみえ,『和名抄』には郷 30,田1万 3766町余を記載。白山比 咩 (しらやまひめ) 神社は『延喜式』神名帳に登載され,『文徳実録』『三代実録』にも叙位の記事がある古社で,当国の一宮として白山に鎮座する。鎌倉時代には守護として比企氏と北条氏一門が任じられ,室町時代には富樫氏が守護。長享2 (1488) 年には急激に勢力を増強した真宗教団の一向一揆に攻撃され,ついに守護富樫政親は討死にし,以来,一向宗徒は 100年に近い期間,加賀の国を支配した。天正8 (1580) 年,織田信長は一向宗徒の勢力を鎮圧し,その後は前田氏,丹羽氏の領有が続いた。豊臣秀吉前田利家を当国に封じ,以来,江戸時代を通じて前田氏が領有。なお,加賀藩は表高 102万 5000石であったが,内高は 120万石以上といわれ,これは外様 (とざま) 大名でありながら江戸藩府諸大名のなかで最高の石高であった。明治4 (1871) 年の廃藩置県では,7月に金沢県と大聖寺県とになったが,同年 11月には金沢県と七尾県に変り,さらに同5年に合併して石川県となる。

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百科事典マイペディア 「加賀国」の意味・わかりやすい解説

加賀国【かがのくに】

旧国名。加州(賀州)とも。北陸道の一国。現在の石川県南部。823年越前(えちぜん)国から分置。《延喜式》に上国,4郡。古くから地味豊かで奈良時代には東大寺などの荘園があった。鎌倉時代の守護は名越氏ら北条氏一門。室町時代に富樫氏,次いで一向宗が勢力を伸張,織田信長の一向衆討伐後,前田氏が領し,明治維新に及ぶ。→加賀一向一揆一向一揆金沢藩
→関連項目石川[県]大野荘(石川)中部地方

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「加賀国」の解説

加賀国
かがのくに

北陸道の国。現在の石川県南部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では江沼(えの)・能美(のみ)・加賀・石川の4郡からなる。823年(弘仁14)越前国から加賀・江沼の2郡が分置され,同時に加賀郡(のち河北郡)南部が石川郡に,江沼郡北部が能美郡としてわかれた。平安時代の国府は能美郡(現,小松市)におかれたと考えられる。国分寺には841年(承和8)勝興寺をあてた。国分尼寺は創建されなかったとされる。「和名抄」所載田数は1万3766町余。「延喜式」では調として絹・綾・帛など,庸は綿・米が主体。一宮は白山比咩(しらやまひめ)神社(現,白山市)で,白山信仰を背景に奈良時代以来,鎌倉時代末まで勢力をふるった。南北朝期以降,在地の富樫(とがし)氏が守護大名となり,守護所を現在の野々市町においたが,1488年(長享2)一向一揆により滅ぼされ,以後約1世紀の間,本願寺による一国支配が続いた。一向一揆の政庁は1546年(天文15)草創の御山御坊(金沢御堂。現,金沢市)であったが,1580年(天正8)柴田勝家により陥落した。近世は金沢藩とその支藩大聖寺藩領。1871年(明治4)の廃藩置県により金沢県となり,72年石川県と改称。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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