田中保(読み)たなかほ

日本歴史地名大系 「田中保」の解説

田中保
たなかほ

現八尾町田中を遺称地とし、範域はその周辺一帯を含むと思われるが未詳。元来国衙領であったと考えられる。建武四年(一三三七)一二月二四日の足利尊氏袖判下文(南狩遺文)に「田中保」とみえ、佐々木高貞の配分どおりに当保惣領分の八部のうちの半分などを勲功の賞(同年の越前金ヶ崎城新田攻撃の軍功か)として佐々木頼宗に宛行っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

20世紀日本人名事典 「田中保」の解説

田中 保
タナカ ヤスシ

大正・昭和期の洋画家



生年
明治19(1886)年5月13日

没年
昭和16(1941)年4月24日

出生地
埼玉県岩槻市

学歴〔年〕
埼玉県立第一中(現・浦和高校)卒

経歴
明治37年18歳で中学を卒業後、単身渡米。シアトル転々と職を変えて苦学しながらフォッココダマの画塾へ通い修業と研鑚ののち、“裸婦の田中”といわれるように裸体画の研究、制作に専念。大正6年詩人のルイーズ・ゲブハルト・カンと結婚。9年夫人とともにパリに移住、多くの画廊、各サロンへ出品を続け、昭和4年ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールの会員に推挙された。藤田嗣治とともに声価を高め、“肖像、裸婦、風景、花の画家…”として脚光を浴びたが、日本画壇とは無縁のまま日本には帰らなかった。昭和51年伊勢丹美術館において初めて日本で紹介された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中保」の解説

田中保 たなか-やすし

1886-1941 明治-昭和時代前期の洋画家。
明治19年5月13日生まれ。37年アメリカのシアトルにわたり,フォッコ=タダマにまなぶ。のちパリで活躍し,サロン-ドートンヌなどに出品。裸婦画で知られた。昭和16年4月24日パリで死去。56歳。埼玉県出身。浦和中学卒。
格言など】私は人物自分の想い通りに描くのであって,決して人物そのものを描くのではない(「ラプソディ・イン・パリ―田中保をめぐる画家たち」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

グレーゾーン解消制度

個々の企業が新事業を始める場合に、なんらかの規制に該当するかどうかを事前に確認できる制度。2014年(平成26)施行の産業競争力強化法に基づき導入された。企業ごとに事業所管省庁へ申請し、関係省庁と調整...

グレーゾーン解消制度の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android