日本の城がわかる事典 「田中城」の解説 たなかじょう【田中城】 静岡県藤枝市にあった戦国時代の輪郭式の平城(ひらじろ)。江戸時代には田中藩の藩庁が置かれた城である。本丸を中心にして同心円状に三重の堀をめぐらしためずらしい縄張りをもつ城である。また、二の丸と三の丸の外に6つの丸馬出が設けられているが、これは武田氏の甲州流築城術の特徴である。もともとは駿河守護の今川氏により築かれた、今川氏属将の由比美作守正信が在城し、徳之一色城と呼ばれていた。その後、城主は長谷川氏に代わったが、駿河に侵攻した甲斐の武田氏が1570年(元亀1)に攻め落とし、信玄の重臣の山県昌景が、駿河の西端に位置する田中城を徳川氏への備えとして重視し、大規模な改修を行った。このとき、田中城に改名されたといわれる。その後、城主は後板垣信安に代わった。掛川城の城兵により諏訪原城(島田市)を攻略し、駿河の武田方の城を分断した徳川家康は、武田氏が滅亡した1582年(天正10)に田中城を攻略。以降、徳川氏の城となった。1601年(慶長6)には酒井忠利が入城して、城を拡張して総郭を設けている。その後、田中藩の藩庁となり、松平氏、水野氏、北条氏ののち、1730年(享保15)に、本多正矩が田中藩4万石の藩主として入城し、本多氏代々を城主(藩主)として明治維新を迎えた。1868年(明治1)、藩主の本多正納が安房長尾に移封され、田中藩は駿河国に転封となった徳川本家の支配地となったため、高橋泥舟が田中城に入城し城を預かったが、その後間もなく廃城となった。なお、駿府城で隠居生活を送っていた徳川家康は、鷹狩りのためたびたび田中城を訪れたといわれる。家康は1616年(元和2)4月に75歳で死去したが、その原因は、御用商人茶屋四郎次郎から上方で流行している鯛の天ぷらの話を聞いて、同年1月にこの城で揚げさせて食べた天ぷらによる腹痛だといわれている。現在、本丸・二の丸跡には西益津小学校が、三の丸跡には西益津中学校が建っている。多くの遺構が失われてしまったが、水堀や石垣の一部が現存している。主な現存遺構は平島一之門跡と付近の土塁のほか、西益津小学校付近には二之堀、三日月堀、西益津中学校裏手には三之堀がある。また、不浄門が移築され旭傳院(ぎょくでんいん)(焼津市)の山門として、また長楽寺(藤枝市)には村郷蔵が移築されて現存している。このほか、藤枝市郷土博物館に江戸時代の城絵図(駿河国田中城絵図)が保存されている。JR東海道本線西焼津駅からバス約7分、西益津中学校前下車。◇亀城、亀甲城、亀井城、徳之一色城ともよばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報